第三話:澱む王宮、見えない糸
リオン・エルハルトが去ってから、王宮の空気は目に見えて「重く」なった。
それは物理的な重さではない。目には見えない
かつて、リオンがただそこに立っているだけで、宮廷の人々は無意識に己の襟を正さざるを得なかった。
彼の透明な眼差しに晒されれば、どんなに巧みに隠した下卑た欲望も、薄汚い嘘も、まるで陽光に照らされた泥のように、その醜悪な輪郭を露わにしてしまうからだ。
彼はいわば、王国の良心を強制的に繋ぎ止める「杭」だった。
その杭が引き抜かれた今、この琥珀色の王宮を埋め尽くしているのは、解放された悪意と、香水で覆いきれない腐敗の臭いだった。
「――ははは! 実に愉快だ。あの不気味な小僧がいなくなってから、酒の味が数段良くなった」
豪華な装飾が施された応接室。上質な酒の香りと、脂ぎった笑い声が満ちている。
ソファに深く腰掛けているのは、教団の会計を牛耳るグレソン伯爵だ。その周囲には、リオンの追放を熱烈に支持した数名の貴族たちが集まっていた。
「全くだ。あやつの前では、些細な冗談すら不敬罪に問われかねん気がして、生きた心地がしなかったからな」
「『君の手からは、金貨ではなく血の匂いがするね』……などと、あのガキめ。一体何様のつもりだったのか」
彼らは、リオンがいないことを確認するように何度も周囲を見回し、そして卑屈な安心感を共有するようにグラスを重ねる。彼らにとって、リオンの「素直な言葉」は、自分たちが築き上げた虚飾の城を切り裂く刃に他ならなかった。
その輪の中心に、一人の男が静かに歩み寄った。
「皆様、随分と楽しげなご様子で」
白銀の法衣を揺らし、慈愛に満ちた微笑を湛えた男――教皇代理、ジュリアン。
彼が現れた瞬間、部屋の温度がわずかに下がった。貴族たちは一瞬、リオンを思い出したかのような戦慄を覚えたが、ジュリアンの柔らかな眼差しに触れ、すぐに相好を崩した。
「おお、教皇代理殿! 貴公こそ、今回の『掃除』における最大の功労者だ」
「滅相もございません。私はただ、陛下の御心を安んじるために、当然の処置をしたまでです」
ジュリアンは恭しく一礼し、グレソン伯爵の隣に腰を下ろした。
彼の動きは流麗で、その言葉には一分の隙もない。リ
オンの言葉が「剥き出しの真実」だとするなら、ジュリアンの言葉は「最上級の絹で包まれた嘘」だった。
「リオンを追放したことで、教団の財政運用もようやく『柔軟に』行えるようになりますな」
グレソン伯爵が声を潜め、邪悪な相談を持ちかける。ジュリアンはそれを拒まず、むしろ優しく促すように頷いた。
「ええ。陛下も、教団の『適切な』発展を望んでおられます。そのためには、リオンのような……融通の利かない異分子は、北の果てで静かに余生を過ごしていただくのが一番なのです」
ジュリアンの瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。
彼は知っている。グレソン伯爵が教団の金を着服し、裏で奴隷売買に加担していることを。
そして今、自分の目の前で笑っている貴族たちが、どれほどこの国を食い荒らしているかを。
リオンなら、今ここで「君たちの心は腐った肉と同じだね」と告げただろう。
だが、ジュリアンは違う。彼はその腐った肉に、極上のスパイスを振りかけ、さらに肥え太らせる。
「伯爵。折り入ってお話が。……実は、北の廃教会を完全に封鎖し、あの一帯を『教団の秘匿聖域』として再編しようという計画がありまして。そこを貴方に管理していただけないか、と」
「ほう、管理を! それは実利の多い話ですな」
伯爵の目が、強欲に光った。 ジュリアンは微笑む。
その笑みは、獲物を蜘蛛の巣へ誘い込む蜘蛛のように、冷酷で完璧だった。
(――そうだ。もっと欲をかけ。自らの罪を、さらに積み上げろ。君たちがその場所へ足を踏み入れた時こそが、君たちの、そして僕の『嘘』が終わる時なのだから)
同じ刻。王宮の最上階。
一切の音を遮断した静寂の間で、この国の頂点に立つ二人の老人が、チェス盤を挟んで向かい合っていた。
この国の王と、教皇。
彼らの前には、ジュリアンから提出された「リオン・エルハルト追放に関する報告書」が置かれている。
「……ジュリアンは、上手くやっておるな」
王が、皺の刻まれた手でポーンを動かす。
「ええ。リオンという『真実』を隔離し、同時に腐敗した者たちをあの一点へ誘い出そうとしております。実に見事な、そして残酷な嘘です」
教皇の声には、嘆きと、そして確かな肯定があった。
彼らは知っていた。
リオンの素直さは、この国を救う劇薬であるが、今の体制を維持したままでは、国を崩壊させてしまう猛毒にもなり得ることを。
「正しい嘘が、この国を支えておる。……ジュリアンには、さらなる泥を被ってもらわねばならん。三人の守護者と共に、リオンを『隔離』という名の檻に閉じ込める。それが、この国を延命させる唯一の道だ」
王の言葉に、教皇は静かに目を閉じた。
彼らはジュリアンの策謀をすべて理解した上で、それを容認している。リオンを捨て、シルヴィアとイリスを没落させ、ジュリアンを大罪人に仕立て上げる。
それが、この世界を「嘘という名の平穏」の中に留めるための、王家としての決断だった。
「リオン・エルハルト。……あの子の眼差しに、我らもまた耐えられなかったのだな」
教皇の独り言は、香煙の中に溶けて消えた。
北へ向かう風が、王宮の澱んだ空気を吹き飛ばそうと虚しく窓を叩く。
王宮の地下通路を、ジュリアンは一人、足早に歩いていた。
「……スープの味なんて、もう忘れてしまったよ、リオン」
彼は誰にも聞こえない声で呟く。
彼の纏う白銀の法衣は、琥珀色の光に照らされて美しく輝いていたが、その内側にある心臓は、どの悪徳貴族よりも深く、どす黒い罪悪感に濡れていた。
リオンを救うために、リオンの居場所を奪う。
リオンの願いを叶えるために、リオンの心を傷つける。
ジュリアンの手の中で、不可視の糸が複雑に絡み合い、確実に「終焉」へと向かって張り詰められていく。
「おかえりと言われる資格なんて、僕には最初から無かったんだ」
彼は一度だけ足を止め、北の空を見上げた。
そこには、自分たちが捨てた「真実」が、今も変わらず白く輝いているはずだった。
次の更新予定
白塩(はくえん)の廃教会にて、ありのままの君と。 淡綴(あわつづり) @muniyu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。白塩(はくえん)の廃教会にて、ありのままの君と。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。