第二話:白塩の廃教会、沈黙の受容

 王都から北へ、馬を三度乗り継ぎ、最後は己の足で雪原を行く。


 辿り着いたその場所は、地図からも、そして神の記憶からも忘れ去られたような「終わりの地」だった。


 白塩はくえんの廃教会。


 かつて、この地には奇跡が宿っていたという。


 けれど今は、壁も床も、かつて神を模していたであろう石像も、すべてが白い塩の結晶に覆われている。風が吹くたびに、結晶同士が擦れ合い、チリチリと細く、冷たい鈴のような音が響く。


「……変わっていないね。ここは、ずっと白いままだ」


 僕は、崩れかけた礼拝堂の扉を押し開けた。


 軋む音さえ、塩の粉末に吸い込まれていく。


 足を踏み入れると、床に積もった塩の層がサクリと心地よい音を立てた。


 僕は荷物を下ろし、一番近くにあった石の長椅子に触れる。指先を通して、心臓まで凍りつくような冷たさが伝わってきた。けれど、それは「不快」ではなかった。ただ、そこには「冷たさ」という事実があるだけだ。


 僕は、持ってきた古い布を取り出し、ゆっくりと床の掃除を始めた。


 誰に命じられたわけでもない。ただ、ここに住むのなら、床が綺麗な方が歩きやすい。その程度の、ごく当たり前の理由だ。


 礼拝堂の中央には、四つの小さな石の台が、円を描くように並んでいた。


 かつて、僕たちがまだ子供だった頃。


 ジュリアンが、シルヴィアが、そしてイリスが、大人の目を盗んでここに集まり、不格好なスープを分かち合った場所だ。


 僕は、その四つの台の上に、持ってきた四つの木皿を並べた。


 今はまだ、僕以外にこれを使う者はいない。


 けれど、僕は四つの皿を、同じ間隔で、丁寧に置く。


 それが、僕にとっての「ありのまま」の風景だったからだ。



 一方、その頃。


 陽光の温もりさえ重苦しく感じられる王都の深奥――「聖女の塔」では、別の沈黙が流れていた。


「……イリス。入るぞ」


 聖騎士団長、シルヴィア・ヴァレンタインが、重厚な扉を開く。


 そこは、花の香りよりも濃い「香煙」と、絶え間なく続く「祈り」に支配された空間だった。


 部屋の中央、白磁のような台座の上に、一人の少女が座していた。


 影の聖女、イリス。


 彼女は今、この国に渦巻く「呪い」をその身に引き受ける儀式の最中だった。彼女の白い肌には、黒い痣のような模様が浮かび上がり、それは呼吸を繰り返すたびに生き物のように蠢いている。


「……シルヴィア様。リオン様は、本当に行ってしまわれたのですね」


 イリスが、伏せていた瞳をゆっくりと開いた。


 その瞳は、深い影を宿した紫水晶のようだった。彼女の声には感情の起伏がない。けれど、彼女の指先は、祈りの形を崩さぬまま、白くなるほど強く握り締められていた。


「ああ。先ほど、城門を抜けたのを確認した」


 シルヴィアは、部屋の隅にある窓から、リオンが消えていった北の空を見つめる。 その横顔は、リオンの前で見せた「震え」を完全に消し去った、鉄の仮面だった。


「私たちは、また嘘を重ねましたね。あの人を守るためと言いながら、あの人の居場所を奪った」


「……ジュリアンが決めたことだ。あの宮廷にリオンを置いておけば、奴らはリオンの『目』を恐れ、いずれ毒を盛る。それよりは、北の廃教会へ逃がす方が……」


「わかっています。わかっています、シルヴィア様。……でも、私の心は、リオン様に指摘されるまでもなく、今にも壊れそうです」


 イリスが、自分の胸元を強く押さえる。


 彼女の役割は、国の汚れを肩代わりすること。


 汚れても、壊れても、聖女であり続けなければならない。


 彼女もシルヴィアも、その「役割」という名の重い鎧に押し潰されながら、かろうじて立っている。


「……リオン様がいなくなった世界で、私は、いつまで『聖女』を演じられるのでしょう」


 イリスの瞳から、一筋の黒い涙が零れた。


 それは呪術の反動か、それとも彼女自身の心の悲鳴か。


 シルヴィアはそれを拭うこともできず、ただ黙って、リオンのいなくなった冷たい部屋の空気を吸い込んでいた。



 廃教会では、ようやく床の半分が綺麗になった。


 掃除を終えた僕は、廃教会の裏手にある、小さな暖炉に火を灯した。 乾いた薪が爆ぜ、白い塩の壁に、オレンジ色の影が揺れる。


「……火は、温かいね」


 僕は、小さな鍋に雪を入れ、塩を少々振って、湯を沸かした。


 具材は何もない。味の薄い、ただの温かいお湯だ。


 けれど、その湯気を見つめていると、不意に、幼い頃のジュリアンの言葉を思い出した。


『いつか僕が、世界で一番贅沢なスープを、三人に食べさせてあげるよ』


 僕は、自分の分の木皿に湯を注ぎ、一口飲んだ。


 味はない。けれど、喉を通る熱だけは、確かに「ここ」にある。


「贅沢なスープもいいけれど……」


 僕は、空いている三つの皿を見つめて、独り言を漏らす。


「僕は、この味のしないお湯を、君たちと一緒に飲むのも、悪くないと思うよ。……ジュリアン、シルヴィア、イリス」


 北風が教会の壁を叩き、白い結晶がまたチリチリと鳴った。


 僕は、膝を抱え、四つの皿が並ぶ静寂を、ありのままに受け入れた。


 明日も、ここを掃除しよう。


 いつか、四人分の湯気が、この白い空間に満ちる事実が、いつか訪れるかもしれないから。

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