第7話 慎重すぎる判断が、命を救う日
冒険者ギルドの中に足を踏み入れた瞬間、昨日までとは違う空気を肌で感じ取った。騒がしさそのものは変わらない。酒の匂いも、汗と鉄の混じった空気も、依頼書を巡って交わされる雑多な声も、いつも通りだ。だが、そのすべての中に、わずかな引っかかりが混じっている。
視線だ。
露骨に見られているわけではない。だが、視界の端でこちらを一瞬だけ確認し、すぐに逸らす動作が、あちこちで繰り返されている。それは好意でも敵意でもない。ただ、「知っている存在」を確認する仕草だ。
昨日、街道で魔物を倒し、素材を納品し、報酬を受け取った。それだけのことが、ギルドという閉じた空間では、想像以上に早く共有される。誰かが意図的に広めなくても、自然と噂になる。
「……落ち着け」
小さく息を吐きながら、私は掲示板の前に立った。紙が何重にも貼られ、古いものは剥がされた跡だけが残っている。依頼書一枚一枚が、単なる仕事ではなく、失敗すれば死に繋がる可能性を内包している。その事実を、昨日よりもはっきりと実感していた。
視線を上から下へと動かし、条件を拾っていく。場所、危険度、報酬額。だが、数字や単語だけを追うことはしない。文章の癖、曖昧な表現、妙にぼかされた言い回し。前世で契約書や業務委託の文面を読む時と同じ感覚だ。重要なことほど、分かりやすく書かれていない。
報酬が相場より高い依頼は、理由がある。
逆に、安すぎる依頼も信用できない。
「……これは、違うな」
一枚目を外す。
護衛依頼。人数不明、経路詳細なし。却下。
次。
採取依頼。場所は森の奥、期限が短い。割に合わない。
さらに次へ。
街道から外れた森の周辺調査。危険度は「低〜中」と書かれている。その曖昧さが、妙に引っかかった。低なのか中なのか、その判断基準がどこにも書かれていない。
その時、頭の奥がわずかにざわついた。
嫌な予感、と言うほど強くはない。だが、無視できるほど弱くもない。昨日、初戦闘の直前に感じたのと、同じ種類の違和感だ。
「……気のせい、か」
そう自分に言い聞かせながら、依頼書を読み返す。調査範囲がやけに広い。報告期限が短い。危険度に対して、条件が釣り合っていない。
頭の中で、仮定を積み上げる。
もし魔物が一体ではなかったら。
もし逃げ場が限られていたら。
もし想定外の種類だったら。
そのどれもが、「今の自分」にとって致命的になり得る。
「……割に合わない」
結論は、静かに出た。
派手な成果はない。だが、ここで無理をする理由もない。私はその依頼書から手を離し、掲示板の前を離れた。周囲から見れば、腰抜けに見えるかもしれない。それでも構わなかった。
ギルドの隅にある長椅子に腰を下ろし、しばらく周囲の様子を観察する。誰がどの依頼を取るのか、どんな装備で出ていくのか。その一つ一つが、情報になる。
しばらくして、昨日顔を合わせた中年の冒険者が戻ってきた。防具には泥が付き、表情には疲労が浮かんでいる。
「……森の調査、受けなかったのか」
「……はい」
「俺たちが行った。魔物、三体いたぞ。想定より多かった」
胸の奥が、冷たくなった。
「新人が一人、深手を負った。死ななかっただけ運がいい」
それだけ言って、男は水袋に口をつけた。
もし、あの依頼を受けていたら。
もし、違和感を無視していたら。
答えは分からない。だが、安全ではなかったことだけは確かだ。
長椅子に深く腰を沈め、天井を見上げる。周囲の視線が、少しだけ変わった気がした。嘲笑ではない。称賛でもない。ただ、「判断した」という事実を見られている。
「……慎重すぎる、か」
そう思われているだろう。
だが、それでいい。
前世では、無理を重ね、限界を超え、最後には壊れた。今度は違う。無理をしないことを、最初から選ぶ。
微弱予測の感覚を、改めて思い返す。完璧ではない。外れることもある。だが、完全に無視するには惜しい。
「……判断材料の一つ、だな」
頼らない。だが、切り捨てもしない。その距離感を、これからも保つ。
ギルドを出ると、夕方の風が肌に当たった。今日は一銭も稼いでいない。それでも、不思議と後悔はなかった。昨日受け取った銀貨二枚の重みを、無駄にせずに済んだ。
「……今日は、正解だった」
小さく呟く。
英雄にはなれない。
だが、生きている。
それで十分だ。
剣と防具の重みを確かめながら、私は宿への道を歩いた。慎重であることは、臆病であることとは違う。その確信が、静かに胸の中に積み重なっていった。
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