第8話 何もしない一日を、選び続けるということ

目を覚ました瞬間、最初に浮かんだのは「今日は稼がなくていいのか」という考えだった。

 身体は軽い。筋肉に張りもなく、関節も滑らかに動く。前世であれば、連勤が続いた後の朝は、それだけで絶望的な気分になったものだが、今の身体はそうならない。動こうと思えば、普通に動ける。

 だからこそ、迷いが生まれる。

 動けるなら、働くべきではないのか。

 ギルドに行き、掲示板を見て、条件のいい依頼を選べばいいのではないのか。

 前世で叩き込まれた価値観が、しつこく頭をもたげる。

 体調がいいのに休むのは怠慢。

 稼げる状態で何もしないのは損失。

「……その結果が、あれだったんだろ」

 自分に言い聞かせるように呟く。

 剣に視線を向ける。壁に立てかけられた細身の両刃剣は、何も言わずそこにある。昨日まで腰に下げていたそれを、今日は持たない。そう決めただけで、胸の奥がざわついた。

 防具も着ない。

 無防備だ。

 だが、今日は街の中だけで過ごす。

 そう自分に何度も言い聞かせ、宿を出た。

 朝の街は、思っていたよりも穏やかだった。露店の準備をする音、荷を運ぶ人足の掛け声、パンを焼く匂い。命のやり取りとは無縁の生活音が、あちこちに転がっている。

 それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。

 まずは日用品の買い出しだ。

 石鹸、布、保存食。派手さはないが、生活には欠かせないもの。

 市場で石鹸を手に取る。灰色がかった塊で、香りはほとんどない。値段を聞くと、銅貨三枚。

 日本円感覚なら、五百円から六百円くらい。

 品質を考えれば、正直割高だ。

「……前世なら、この値段で三個は買えたな」

 百円ショップやドラッグストアを思い出す。香り付きで、泡立ちもよく、種類も選び放題だった。あの環境がどれほど異常だったのか、今ならよく分かる。

 次に布切れを見る。血や汚れを拭くための消耗品だ。値段は銅貨五枚。日本円なら千円近い感覚になる。使い捨てにするには、明らかに高い。

 一瞬、買うのを躊躇する。

 だが、結局購入した。

 節約して困るのは、後の自分だ。

 保存食の干し肉も確認する。少量で銅貨七枚。日本円換算なら千五百円前後。量の割に高いが、外で食事が取れない状況を考えれば必要経費だ。

 銀貨を崩し、銅貨が増えていく。財布の中身を確認しながら、自然と計算が始まる。宿代が銀貨一枚。日本円なら五千円前後。安宿とはいえ、決して安くはない。

「……東京なら、もっとするか」

 そんな比較をしてしまう自分に、苦笑する。

 買い物を終え、市場を抜けると屋台通りに出た。焼いた肉の脂、香辛料、甘い果物の匂いが混ざり合い、空腹を刺激する。

 串焼きを一つ買う。銅貨一枚。

 日本円感覚なら三百円ほど。

 前世の感覚なら、コンビニのホットスナック程度だ。だが、こちらではそれがちょっとした贅沢になる。

 立ったままかじりつく。肉は硬く、噛み切るのに力がいる。それでも、塩気と脂が口に広がり、思った以上に満足感があった。

「……食事として考えれば、悪くないな」

 コスパ、という言葉が頭をよぎる。

 命を賭けない食事は、それだけで価値がある。

 周囲を見る。子どもが笑い、大人が値段交渉をし、屋台の主人が声を張り上げている。誰も剣を握っていない。誰も命の計算をしていない。

 路地に入ると、反射的に周囲を警戒してしまう自分に気づく。背後、足音、物陰。身体はまだ冒険者のままだ。

「……簡単には抜けないか」

 それでもいい。

 抜けなくていい。

 宿に戻り、買ったものを整理する。石鹸を置き、布を畳み、保存食を包み直す。その作業をしながら、改めて金額を頭の中で並べる。

 今日使った金は、銀貨一枚弱。

 日本円感覚なら、五千円ほど。

「……一日何もしないで、五千円か」

 前世なら、休日に外出すればすぐにそれくらい使っていた。だが、今はその金額が、数日の命を支える。

 夕方、窓から差し込む光が赤くなる。今日は一銭も稼いでいない。それでも、不安よりも納得が勝っている。

 休むことにも、コストはかかる。

 だが、壊れてから払う代償に比べれば、安い。

「……明日も、慎重に」

 そう呟いて、私はベッドに腰を下ろした。

 何もしない休日。

 それでも、頭の中ではずっと計算している。

 だが、その計算ができているうちは、まだ大丈夫だ。

 そう思いながら、静かに夜を迎えた。

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