第3話 名前を決める夜は、思ったより静かだった

宿の部屋を出た瞬間、空気の匂いが変わった。

 木と土、それから人の生活が混じった匂い。前世で慣れ親しんだ排気ガスやアスファルトの熱とはまるで違うのに、なぜか胸の奥がざわつく。外に出るだけで、こんなにも神経を使うとは思わなかった。

 通りには人がいた。荷を運ぶ者、露店を広げる者、武器を腰に下げた冒険者らしき姿も見える。誰もこちらを気にしていないはずなのに、視線が突き刺さる気がして落ち着かない。

「……人、多いな」

 声に出してから、自分の声の高さにまた違和感を覚える。

 慣れない。だが、慣れないからといって立ち止まっていれば、何も始まらない。

 今日の目的は一つ。

 武器を手に入れることだ。

 冒険者になるなら、剣が必要になる。これは分かっている。だが問題は、その「剣」というものが、今の自分にとってあまりにも現実味を帯びすぎていることだった。

 剣は道具だ。

 そして、命を奪うための道具でもある。

 その事実が、じわじわと重くのしかかってくる。

 通りを歩きながら、無意識に自分の手を見る。細く、白い指。前世でキーボードを叩いていた手とは、あまりにも違う。これで剣を振るうのか、という疑問が頭から離れなかった。

 やがて、通りの一角に武器屋が見えてきた。派手な看板はないが、剣や槍の絵が描かれた木板が下がっている。長く商売をしていそうな、実直な雰囲気だ。

 店の前で、足が止まる。

「……入るか」

 逃げたくなる気持ちを、無理やり押さえ込む。

 ここで引き返したら、明日も同じことを繰り返すだけだ。

 意を決して、扉を押した。

 中に入ると、鉄と油の匂いが鼻を突いた。壁には剣や槍が整然と並び、どれも使い込まれた痕跡がある。飾り目的の武器はなく、実用品ばかりだ。

「いらっしゃい」

 声をかけてきたのは、白髪混じりの男だった。年齢は分からないが、身体つきはしっかりしていて、職人らしい落ち着きがある。

「……初心者向けの剣を探していて」

 そう告げると、男は一瞬だけこちらを見て、すぐに納得したように頷いた。

「冒険者志望か」

「はい」

「なら、これだな」

 差し出されたのは、細身の両刃剣だった。長さは控えめで、装飾もない。だが、刃の手入れは行き届いており、安物特有の雑さは感じられない。

 試しに持たせてもらう。

 思ったより軽い。

「……重すぎないですね」

「初心者が振り回せる重さにしてある。変な癖もない」

 その言葉に、妙な安心感を覚えた。

 “癖がない”という評価は、今の自分にとって何よりありがたい。

「値段は?」

「銀貨三枚」

 即座に頭の中で計算する。

 初期資金の大半が飛ぶ金額だ。

 安いとは言えない。

 だが、安物を選んで後悔する未来が、はっきり想像できてしまう。

 前世でもそうだった。安さを理由に無理をして、結局取り返しがつかなくなった。

「……分かりました」

 そう答えた自分の声は、思ったより迷いがなかった。

 剣を受け取り、鞘に収める。腰に下げると、ずしりとした存在感が伝わってくる。物理的な重さ以上に、意味の重さが大きい。

「それを持つってことは、覚悟も背負うってことだ」

 男の言葉が、妙に胸に残った。

 店を出ると、すでに空は夕暮れ色に染まり始めていた。剣の柄に無意識に手が伸びる。

「……戻れない、か」

 冒険者になる。

 剣を持つ。

 それは、後戻りできない選択だ。

 宿に戻り、部屋に入る。剣を壁に立てかけ、ベッドに腰を下ろす。しばらく、その剣を眺めていた。

 そして、思い出す。

 名前のことを。

 冒険者登録には、名前が必要だ。

 前世の名前を使う気にはなれなかった。あの名前には、終電のない夜と、諦め続けた日々が染みついている。

「……ここでは、違う人生にする」

 短くて、目立たない名前。

 呼ばれても、身構えなくていい名前。

 自然と、音が浮かぶ。

「……リリア」

 口に出してみる。

 違和感は、ない。

 鏡に映る金髪の少女と、壁に立てかけた剣。その両方を見比べて、静かに息を吐いた。

「……よろしく」

 誰に向けた言葉かは分からない。

 新しい名前か、この身体か、それともこの世界か。

 夜は、思ったより静かだった。

 布団に横になり、目を閉じる。

 明日は、冒険者ギルドへ行く。

 剣を持ち、名前を名乗る。

 それだけのことが、ひどく大きな一歩に思えた。

 だからこそ、慎重に進もう。

 それだけは、決して忘れないように。

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