第2話 目覚めた先で、最初に違和感が来る
最初に戻ってきた感覚は、重さだった。
白い空間で感じていた、身体と世界の境界が曖昧な感覚はない。今ははっきりと、肉体という輪郭が存在している。背中に触れる布の感触、床から伝わる冷え、空気の温度。それらが一つ一つ、遅れて意識に届いてきた。
「……っ」
息を吸う。肺が確かに膨らみ、空気が体内に入り込む。その当たり前の行為だけで、ここが夢ではないと理解してしまう。夢なら、ここまで感覚が揃うことはない。
――生きている。
その認識とほぼ同時に、頭の奥に鈍い痛みが走った。締め付けられるような重さ。長時間眠った後のそれとも違う、どこか内側から圧される感覚だ。
「……頭、痛い」
声に出した瞬間、強烈な違和感に襲われた。
耳に返ってきた音が、自分のものだと認識できない。
高い。
細い。
妙に澄んでいる。
「……は?」
もう一度、確かめるように声を出す。
「……え?」
やはり同じだ。
頭の中で思っている声と、実際に発せられた音が一致しない。そのズレが、じわじわと不安を増幅させる。
嫌な予感が、背中を這い上がってきた。
ゆっくりと瞼を開く。
視界に飛び込んできたのは、木製の天井だった。年季の入った板張りで、ところどころに節や小さな亀裂が見える。蛍光灯も、白い壁もない。
「……病院じゃないな」
消毒薬の匂いはしない。代わりに、乾いた木と布、それから微かに土の匂いが混じっている。どこか懐かしいようで、同時に知らない匂いだ。
身体を起こそうとして、また違和感に気づく。
動きが軽すぎる。
腕を視界に入れた瞬間、思考が止まった。
細い。異様なほど細い。筋張っていないし、血管も目立たない。力を入れると、簡単に持ち上がる。
「……待て」
胸元に視線を落とす。
布越しでも分かる膨らみ。
「………………」
一瞬、理解を拒否した。
否定する言葉も浮かばない。ただ、思考だけが空回りする。
白い空間でのやり取りが、遅れて蘇った。
女神の笑顔。
あの、ほんのわずかな“間”。
「……女神」
恨み言のように呟く。
声はやはり高い。
ベッドから降りる。足裏に伝わる床の冷たさに、思わず肩が揺れた。視界が低い。前世の感覚で歩こうとして、わずかにバランスを崩す。
「……身長も、違うな」
身体の使い方が、根本から変わっている。
これは着ぐるみでも幻覚でもない。完全に、別の身体だ。
部屋を見回す。
簡素なベッド。小さな机。椅子が一脚。装飾品はほとんどなく、生活最低限といった印象だ。壁には小さな鏡が掛けられている。
「……見るしかない、か」
現実から目を背けても、状況は好転しない。前の人生で、それは嫌というほど思い知らされた。
ゆっくりと鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、金色の髪をした少女だった。
年の頃は十五前後。幼さが残る顔立ちだが、子どもというほどでもない。青い目が、不安そうにこちらを見返している。
「……誰だよ」
当然の疑問だ。
だが、鏡の中の少女も同じように困惑した表情を浮かべている。
「……俺、なのか」
否定したい。
だが、身体の感覚がそれを許さない。
深呼吸をする。胸が上下し、息が身体に馴染む。
混乱しても、事実は変わらない。
「……落ち着け」
立つ。歩く。軽く屈伸する。
驚くほど身体が軽い。前世では数分歩くだけで息が上がっていたのに、今は疲労感すらない。
「……身体能力、高いな」
だが同時に、直感が告げていた。
――調子に乗ったら、死ぬ。
机の上に、小さな布袋が置かれているのに気づく。中を覗くと、硬貨がいくつか入っていた。多くはないが、ゼロでもない。
「……初期資金、か」
無理はさせないが、甘やかしもしない。
あの女神らしい配分だ。
その時、扉の外から足音がした。
「起きた?」
若い女性の声。
「……はい」
返事をすると、扉が開く。茶色の髪をした女性が、ほっとしたような表情でこちらを見た。
「昨日、道端で倒れてたのよ。熱もあったし、放っておけなくて」
なるほど。
そういう“設定”らしい。
「ここは……?」
「街の外れよ。冒険者ギルドの近くだから、人の出入りは多いけどね」
冒険者。
その言葉で、世界が一気に現実味を帯びた。
女性が去った後、ベッドに腰を下ろす。
異世界。少女の身体。冒険者ギルド。
「……慎重に、だな」
即断しない。無理をしない。割に合わないことはやらない。
前の人生でできなかったことを、今度こそ当たり前にやる。
鏡の中の少女を、もう一度見る。
「……まずは、生き残ろう」
それが、この人生で最初に立てた、揺るがない目標だった。
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