第8話 英雄を必要とする人々
変化は、静かに始まった。
最初は、ただの噂だった。
「……あの人が来てから、街が変わったらしい」
「復興官だ。名前は……カナメ、とか」
配給列の後ろで、誰かがそう囁く。
誰かが頷き、誰かが首を傾げる。
それだけのことだ。
だが、噂は空腹よりも速く広がる。
◇
執務所に戻ると、下級官が困った顔で待っていた。
「……苦情、ではないんですが」
「要点を言ってくれ」
「あなたに、会いたいという人が増えています」
俺は、思わず眉をひそめた。
「陳情か」
「それもありますが……感謝、です」
感謝。
この仕事で、最も厄介な言葉だ。
「断っておけ」
「すでに……」
下級官は言いづらそうに続ける。
「勝手に、集まってきています」
執務所の外が、やけに騒がしい理由がわかった。
◇
外に出ると、十数人が待っていた。
老女。
子供を連れた母親。
片腕を失った男。
彼らは、俺を見ると、頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
一人が、そう言った。
声は震えているが、真剣だった。
「井戸が、使えるようになりました」
「子供が、咳をしなくなりました」
「家が……屋根のある家ができました」
一つひとつは、小さなことだ。
だが、彼らにとっては、生き延びた証だった。
「あなたが、やってくれたんですよね」
誰かが言う。
違う、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
俺がやったことは、判断だ。
実際に手を動かしたのは、別の人間だ。
だが、人は、顔のある存在に感謝したがる。
「英雄様……」
誰かが、そう呼んだ。
空気が、固まる。
「やめてくれ」
俺は、即座に言った。
「俺は、英雄じゃない」
「でも……」
「英雄なら、あそこを見せない」
俺は、視線を復興作業区画へ向けた。
柵の向こうで、強制労働に就いている人々が見える。
感謝の声が、途切れる。
人々の視線が、揺れる。
彼らは、あの光景を知っている。
だが、見ないふりをしている。
英雄は、都合の悪いものを背負わない。
だからこそ、英雄は必要とされる。
「……それでも」
老女が、震える声で言った。
「誰かが、決めてくれなければ……」
その言葉が、胸に刺さった。
◇
その日の午後、問題は別の形で現れた。
復興作業区画で、作業を拒否する者が出たのだ。
「もう、十分だろ」
中年の男が、声を上げる。
「街は立ち上がった。俺たちが、これ以上やる理由はない」
周囲が、ざわめく。
監視の兵士が、対応を求めて俺を見る。
俺は、すぐに現場へ向かった。
◇
男は、俺を見ると、皮肉な笑みを浮かべた。
「英雄様のお出ましか」
その言い方に、棘があった。
「俺は、英雄じゃない」
「だが、あんたが決めた」
男は言う。
「俺たちが、ここで働くことを。街を救うためだってな」
「……そうだ」
否定はしない。
「街は、救われただろ」
男の言葉は、正しい。
「だから、次は誰だ。次は、誰が犠牲になる」
周囲の視線が、俺に集まる。
ここで、俺が何を言うか。
それで、空気が決まる。
「誰も、犠牲にしたくない」
正直に言った。
「だが、今すぐ全員を解放すれば、また別の犠牲が出る」
「……あんたは、いつもそうだ」
男は、吐き捨てる。
「正しいことを言って、選ばせない」
その通りだ。
俺は、選ぶ側にいる。
「約束する」
俺は、言った。
「ここでの労働は、期限を切る。無期限にはしない」
ざわめきが、広がる。
「条件は、俺が書面で残す」
兵士に目配せし、書類を持ってこさせる。
「復興が一定段階を超えたら、段階的に解放する。逃げ道は、作る」
完璧ではない。
だが、希望の形は示せる。
男は、しばらく黙っていた。
「……信じろ、と?」
「信じなくていい」
俺は、前と同じ言葉を使った。
「だが、記録は残す。嘘をついたら、後で殺してくれ」
静まり返る。
それは、英雄の言葉じゃない。
だが、判断する人間の言葉だ。
男は、舌打ちをし、持ち場に戻った。
◇
夜、執務所に戻ると、エルネスト司祭が待っていた。
「人々は、あなたを求めています」
「間違っている」
「ええ。ですが、自然です」
司祭は、静かに言う。
「人は、秩序よりも象徴を求めます」
象徴。
それは、責任を預ける先でもある。
「あなたが拒んでも、誰かが作られる」
その言葉が、重く響く。
「偽の英雄が、生まれる前に」
エルネストは、続けた。
「あなた自身が、線を引くべきです」
「……どうやって」
「“英雄にならない理由”を、見せ続けることです」
司祭は、祈祷所の方を見た。
「人は、完璧な存在を信じます。だから、あなたは不完全でいなければならない」
皮肉な話だ。
◇
翌日、掲示板に、新しい張り紙が出た。
――復興官個人への陳情・感謝の禁止。
――判断は、すべて記録として公開。
不満の声も、失望もあった。
だが、支持もあった。
人々は、戸惑いながらも、少しずつ理解し始める。
英雄はいない。
いるのは、判断と、その記録だけだ。
それでも――
噂は消えない。
人は、英雄を必要とする。
不安なときほど、強く。
俺は、その事実から目を逸らさない。
英雄にならないために、
今日も、判断を続ける。
それが、この街を守る唯一の方法だと、
俺は信じている。
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