第5話 祈りは、食料の代わりにならない

救済正教会の使者が来たのは、翌朝だった。

 夜明け前の執務所は冷え切っている。簡易暖炉に火を入れても、石壁に染みついた寒さは簡単には抜けない。机の上に積まれた報告書の山を前に、俺は昨夜の続きを書こうとしていた。

 隔離は成功。

 感染拡大なし。

 死者一名。

 数字だけを並べれば、判断は正しかった。

 だが、その数字が、昨日柵の前で叫んでいた男の声を消すことはない。

 扉を叩く音がした。

「入れ」

 入ってきたのは、白い外套をまとった三人組だった。胸元には、円環と十字を組み合わせた紋章がある。救済正教会――この世界で最も影響力を持つ宗教組織の一つだ。

 先頭に立つ男は、まだ若い。三十代前半だろうか。顔立ちは穏やかで、目元には慈愛を浮かべている。

 だが、その後ろに控える二人は違った。年配で、視線が鋭い。祈る人間ではなく、測る人間の目だ。

「臨時復興官、カナメ・シオザキ殿」

 若い男が一礼する。

「私は救済正教会司祭、エルネストと申します」

 俺も、形式的に頭を下げた。

「ご用件は」

「支援の申し出です」

 即答だった。

 彼は、懐から書簡を取り出す。封蝋には、教会の紋章。

「食料、医療物資、そして治癒魔法の使い手。必要なものを、可能な限り提供します」

 一瞬、執務所の空気が変わった。

 必要なもの。

 今、この地で最も不足しているものだ。

 俺は、すぐに返事をしなかった。

 代わりに、問いを投げる。

「条件は」

 エルネストは、少しだけ笑った。

「さすがですね。話が早い」

 彼は続ける。

「難民キャンプにおいて、我ら救済正教会の祈祷所を設けさせてください」

 予想通りだ。

「祈りを強制するつもりはありません。ただ――」

 その「ただ」が、問題だった。

「配給や治療の際、祈祷に立ち会うことを認めていただきたいのです」

 俺は、黙って聞く。

「人は、救われる理由を必要とします。神の慈悲を知ることで、彼らは希望を持てる」

 希望。

 便利な言葉だ。

「祈りは、腹を満たさない」

 俺は、淡々と言った。

 エルネストの表情が、わずかに揺れる。

「ですが、心を支えます」

「心があっても、食料がなければ死にます」

 後ろに控えていた年配の司祭が、一歩前に出た。

「復興官殿。あなたは、人の心を軽視しすぎている」

 低い声だ。

 責めるでもなく、諭すでもない。裁く声だった。

「心を失った人間は、秩序を壊す。あなたも、それを知っているはずだ」

 確かに、その通りだ。

 第2話で、俺はそれを身をもって体験している。

「だからこそ、祈りが必要なのです」

 エルネストが、再び口を開く。

「我々は、あなたの判断を助けたい。暴動を防ぎ、秩序を守り、命を救うために」

 言葉は、すべて正しい。

 善意だ。

 だが、善意ほど扱いにくいものはない。

「確認します」

 俺は、指を組んだ。

「祈祷に立ち会わなかった者は、どうなります」

 エルネストは、一瞬だけ言葉を探した。

「……強制はしません」

「回りくどい言い方ですね」

 俺は続ける。

「祈らなかった者が、後回しにされる可能性は」

「ありません」

 即答だったが、声にわずかな硬さがあった。

 俺は、後ろの年配司祭に視線を向ける。

「あなたは、どう思いますか」

 彼は、少しだけ顎を上げた。

「信仰は、行動で示されるものだ」

 答えになっていない。

 だが、十分だった。

「……なるほど」

 俺は、椅子にもたれた。

 この提案を拒否すれば、食料と医療は手に入らない。

 受け入れれば、秩序は保たれるかもしれない。

 だが、救われる条件が変わる。

 信じる者。

 祈る者。

 従う者。

 それ以外は、どうなる。

「一部、受け入れます」

 沈黙が落ちる。

 エルネストの目が、わずかに見開かれた。

「条件があります」

 俺は続ける。

「祈祷所の設置は認める。ただし、配給・治療の優先順位には一切関与しない」

「……それでは、意味が」

「あります」

 俺は言い切った。

「人は、祈る場所があればいい。救われる条件に、祈りを含める必要はない」

 年配司祭が、低く唸る。

「それでは、神の慈悲が――」

「神の慈悲があるなら、祈らなくても届くはずです」

 言葉は、強すぎたかもしれない。

 だが、引くわけにはいかなかった。

 エルネストは、しばらく黙った後、深く息を吐いた。

「……わかりました。今回は、その条件を受け入れましょう」

 後ろの司祭が、何か言いかけたが、エルネストが制した。

「ただし」

 彼は、真っ直ぐに俺を見た。

「人は、いずれ選びます。神を信じるか。あなたを信じるか」

 俺は、首を横に振った。

「俺を信じる必要はありません」

 静かに言う。

「判断を信じてください」

 ◇

 その日の午後、難民キャンプに祈祷所が設けられた。

 人々は集まった。

 祈る者も、遠巻きに見る者もいる。

 食料は配られ、治療は行われた。

 数字の上では、成功だ。

 だが、空気は変わった。

 祈る者と、祈らない者。

 感謝する者と、疑う者。

 線が、引かれ始めている。

 夕方、配給担当官が小声で報告する。

「……祈祷所の前で、列ができ始めています」

 予想通りだった。

 人は、少しでも有利な場所に並ぶ。

 俺は、空を見上げた。

 雲の隙間から、弱い光が差している。

 祈りは、食料の代わりにならない。

 だが、人は、祈りを食料のように扱い始める。

 この選択が、正しかったのかどうか。

 答えは、また遅れてやってくる。

 だが、俺は逃げない。

 善意が武器になる世界で、

 判断を手放した瞬間、すべてが崩れるからだ。

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