第4話 正義は、いつも遅れてやってくる

それは、報告書の一行から始まった。

 ――難民キャンプ第三区画にて、発熱者三名。

 ――隔離対応済み。

 紙の上では、ただの事務的な文字列だ。

 だが、その行を目にした瞬間、胸の奥が冷えた。

 発熱三名。

 見えている数字が三名なら、実際はもっと多い。

「隔離は、誰の判断だ」

 伝令役の下級官が、慌てて答える。

「現場の医師です。感染症の疑いがあるとして……」

「何人、接触した」

「正確には……把握できていません」

 把握できていない。

 その言葉は、最悪の兆候だった。

 難民キャンプ第三区画は、最も過密な区域だ。家族単位ではなく、行き場を失った人々が、寄り集まるようにして暮らしている。寝る場所も、食事をする場所も、境界が曖昧だ。

 発熱者が三名。

 それは、氷山の一角に過ぎない。

 俺は外套を掴み、執務所を出た。

 ◇

 キャンプに近づくにつれ、空気が変わっていく。

 音が、少ない。

 人はいる。確かにいるのに、話し声がほとんど聞こえない。

 静けさは、安心ではない。

 警戒だ。

 隔離区画の前には、即席の柵が設けられていた。木材と縄で急ごしらえしただけのものだが、内と外を分けるには十分だった。中には、粗末な寝台が並び、人影が横たわっている。

 医師が一人、額に汗を滲ませながら対応していた。

「状況は」

「よくありません」

 即答だった。

「症状の進行が早い。昨日まで動いていた人間が、今朝には立てなくなっています」

「原因は」

「特定できていません。ただ……」

 医師は一瞬、言葉を選んだ。

「水です。第三区画の井戸、水質が明らかに悪い」

 胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

 北部復興点を優先した結果、この区域の井戸の修復は後回しになっていた。

 俺の判断だ。

「隔離は、どこまで徹底できている」

「完全ではありません。家族が近づこうとするのを、兵士が止めていますが……」

 その言葉が終わる前に、怒号が上がった。

「出せ! 中にいるのは、俺の妻だ!」

 柵の外で、男が叫んでいる。顔は青白く、目は血走っていた。兵士が二人、彼を押し留めているが、力は使っていない。使えば、取り返しがつかなくなる。

 俺は、男の前に立った。

「話を聞く」

「聞くだけか!」

 男は唾を飛ばしながら叫ぶ。

「中にいるのは、俺の妻だ! 熱があるだけだ! 病気だろうが何だろうが、俺が面倒を見る!」

「中に入れば、君も倒れる可能性が高い」

「構わない!」

 構わない、と言えるのは、今だけだ。

 死が現実になった瞬間、人は必ず後悔する。

「彼女は、今すぐ死なない」

 俺は、事実だけを言った。

「だが、ここで隔離を崩せば、もっと多くが死ぬ」

「知るか!」

 周囲がざわめく。

 第2話で抑えた怒りが、再び形を取り始めている。

 俺は、少しだけ声を落とした。

「君の妻を助けたい。その気持ちは、正しい」

 男の目が揺れる。

「だからこそ、頼む。ここで壊さないでくれ」

「……誰が、責任を取る」

 震える声だった。

「もし、妻が死んだら。もし、俺が一生会えなかったら……誰が責任を取る!」

 その問いは、刃物のように鋭かった。

 俺は、目を逸らさなかった。

「俺が取る」

 場が、凍りついた。

 復興官が、個人として責任を引き受ける。

 制度としては間違っている。

 だが、今は必要だった。

「俺が判断した。俺が線を引いた。だから、結果がどうなろうと、俺の責任だ」

 男は、唇を噛みしめ、拳を握りしめた。

 やがて、力なく柵から離れる。

 ◇

 その夜、死者が出た。

 隔離された発熱者三名のうち、一人。

 高齢の男だった。

 俺は、名前を確認する。

 帳簿の上では、ただの一行だ。

 翌朝、簡素な葬送が行われた。

 祈りを捧げる者もいれば、遠巻きに睨みつける者もいる。

「結局、死んだじゃないか」

 誰かが呟く。

 正しい。

 隔離しても、救えなかった。

 だが、感染は広がらなかった。

 隔離区画の外で、新たな発熱者は確認されていない。

 数字の上では、成功だ。

 俺は、葬送の輪から少し離れた場所で立ち尽くす。

 正義は、いつも遅れてやってくる。

 隔離が正しかったかどうかは、今は誰にもわからない。

 数日後、数週間後に、「助かった命の数」として現れる。

 そのとき、死んだ一人は、統計に埋もれる。

 それが、俺のやっている仕事だ。

 ◇

 執務所に戻ると、王都からの追加通達が届いていた。

 ――救済正教会より、支援の申し出あり。

 ――条件付き。

 紙を閉じる。

 次は、祈りと引き換えの救済か。

 机に突っ伏し、俺はしばらく動けなかった。

 今日、正しいことをしたのか。

 それとも、正しいと思い込んだだけか。

 答えは、まだ来ない。

 正義は、いつも遅れてやってくる。

 だが、判断は待ってくれない。

 明日も、誰かが俺に問いを投げるだろう。

 救うのか。

 切り捨てるのか。

 俺は、その問いから逃げない。

 英雄にはなれなくても。

 恨まれ続けるとしても。

 それが、復興官の仕事だからだ。

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