LOSER

αβーアルファベーター

飼い主と猫

「ほんと、馬鹿だなぁ」


朝の光が、薄いカーテンをすり抜けて台所を照らしていた。

まだ眠りの名残を引きずった空気の中で、男はそう言って、かすかに笑った。


その視線の先。

足元では飼い猫が、

器の中の餌に顔を突っ込み、夢中で食べている。


がつがつ、がつがつ。


噛むことも、味わうことも忘れたような勢い。

ただ、生きるために口を動かすだけの姿だった。


「ほら。餌のときだけ必死になってさ」


男が声をかけても、猫は顔を上げない。

名前を呼ばれても、返事の代わりに尻尾が一度、ゆらりと揺れるだけ。


それで十分だと言わんばかりに。


「……こんなのに生まれなくてよかった」


男はマグカップを手に取った。

中身は少し冷めたコーヒー。

苦味が、なぜか今日に限ってちょうどいい。


「動物はさ、本能に縛られてるだろ」


独り言のように、誰に向けるでもなく言葉を続ける。


「考えなくていい。

 悩まなくていい。

 迷わなくていい」


猫は相変わらず餌に夢中だ。


「……楽だよな。ほんと」


そう呟く声には、羨望と、

諦めと、ほんの少しの嫉妬が混じっていた。


彼は知らない。

“人間らしさ”という言葉が、

どれほど人間を縛り、苦しめ、追い詰めるかを。


正しくあれ。

強くあれ。

間違えるな。


そんな言葉に囲まれて、人はいつの間にか「迷うこと」を義務にされる。


玄関で靴紐を結びながら、男は一度だけ振り返った。


「じゃあ、行ってくる」


それは、いつもと同じ言い方だった。

声の高さも、間の取り方も、昨日と変わらない。


けれど、その背中には――

もう戻らない覚悟が、ぴたりと張りついていた。


遠い大陸。

名前も知らない誰かと向き合い、命令に従う仕事。


敵か味方かもわからない相手を、

“撃つべき存在”として教えられる場所。


そう、戦争だ。


猫はただ、ドアの閉まる音を聞いた。


カチャリ、という小さな音。


それだけで、家は急に広くなった。


――静かになった家で、時間はゆっくり流れる。


餌は決まった時間に自動で出てくる。

水もある。

陽だまりも、窓辺にちゃんと残っている。


猫は何も失っていない。


誰かを待つ理由も、

帰りを心配する言葉も、

そもそも持っていないからだ。


それでも、昼寝の途中。

夢と現実の境目で、ふと、違和感が胸をかすめる。


いつもなら聞こえるはずの足音が、今日はしない。


理由はわからない。

意味も考えない。


それでも、なぜか思ってしまう。


――人間って、馬鹿だなぁ。


いや、猫はそんな言葉を使わない。


馬鹿だとか、賢いだとか。

上だとか、下だとか。


比べる必要がない世界で生きているからだ。


だから、猫の思考はもっと単純で、もっと残酷で、そして優しい。


――人間って、可哀想だ。


本能のままに狩る動物と、

感情のままに争う人間。


どちらが野蛮なのか、猫にはわからない。


ただ一つ、確かなことがある。


人間は、自分たちの中にある“動物らしさ”を、ひどく嫌っている。


怒れば「獣みたいだ」と言われ、

欲しがれば「浅ましい」と笑われる。


頭の悪い者を馬鹿と呼び、

太った者を豚と呼び、

遅い者を亀と嘲る。


――動物の名を、罵りとして使う。


それはきっと、

自分たちが動物より“下”になることを、何より恐れているからだ。


本能のせいにできないから。


「仕方なかった」と言えないから。


人は、“人として”選んだという形を欲しがる。


撃ったことも、

憎んだことも、

見捨てたことも。


すべて、自分で決めたのだと。


だからこそ、人間は重い。


選んだという事実を、

一生、背負って歩かなければならない。


猫は今日も、窓辺で大きなあくびをした。


戦争も知らない。

正義も知らない。

何が正解かも知らない。


ただ、生きることだけをしている。


――本能のままに生きられない者たち。


それでもなお、

誰かを“獣”と呼ぶことで安心する者たち。


その姿こそが、

最も人間らしく、

そして最も弱い。


本当の敗者――

LOSERなのだと。


猫は何も裁かない。


裁くという行為そのものが、

人間だけに許された、残酷な知性だと知っているから。


静かな午後。

世界は何事もなかったように続いていく。


人間が作った、

争いと理由と正義に満ちた世界の、その外側で。


猫はただ、目を閉じる。


今日も、生きるためだけに。

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