第6話
非常階段のコンクリートに背を預け、
わたしはゆっくりと息を吐いた。
5年前なら
煙草は吸えない。
この頃は、もしかしたら、数を控えていたはずだ。
所謂抜き物系のシャンパンやワインなどのアルコールからは
逃げられなかったはずだが。
それでも、指先が無意識に口寂しさを埋めようと挟むものを探す仕草だけが残っている。
「随分、律儀…」
時刻は0時のまま。
針は止まっていないのに、進んでもいない気がする。
秒針の音だけが、やけに大きく耳に残る。
店内から、ナミさんの笑い声が漏れてくる。
あの頃特有の、少ししゃがれた、疲れを隠すために作った笑い声。
まだ壊れていない声だ。
――入らなきゃ。
理由なんてない。
ただ、非常階段に居続けることが、取り返しのつかない選択になる気がした。
これ以上誰かに出会ってしまったら。
鉄の扉を押すと、ユーロビートが一気に全身にぶつかってくる。
甘い香水、アルコール、整髪料、そして金の匂い。
懐かしさは、ない。
これは「知っている地獄」だ。
「ハナちゃん、お疲れー」
フロア係の男が軽く手を挙げる。
若い。
タイガくん。
浅黒い肌に、少し緩んだネクタイの首元。
23歳の
わたしが可愛がっていたボーイだ。
「今日、大森さんどうする?」
その問いに、わたしは一瞬だけ答えに詰まる。
この頃のわたしは、同伴後は大抵大森さんとアフターに出ていた。
断る理由を持たなかったからだ。あわよくば、まともに働くより大きな稼ぎが手に入った。
――でも。
「もう上がりたい。タイガくん、悪いけど大森さんに、ハナ具合が悪いから今日はもう送りに出したって伝えて」
声が、思ったよりもはっきりと出た。
「え、珍し。具合悪い?」
「ちょっと、頭が。気圧頭痛。あとでフォローするから」
嘘だ。
でもこの世界では、嘘は通貨みたいなものだ。
タイガくんは深く追及せず、「了解」と短く言った。
わたしにしては珍しいことだが、タイガくんは勘がよく、小さな変化にもよく気付いた。
そう、わたしの妊娠に一番最初に気付いたのも、タイガくんだった。
だがそれにしてもあっさりしすぎていて、胸の奥がひくりと痛む。
本当は、わたしが何を選ぼうと、誰も困らったりはしない。
こっそりとロッカールームへ向かう途中、鏡に映った自分と目が合う。
若い。
今のわたしより確実に若い。
所謂、夜会巻きをした、グレージュの髪のわたしがいた。
でも、目の奥はすでに疲れている。
「……ここからだったのかな」
小さく呟く。
間違えた“場所”ではなく、間違え続けることを覚えた“時期”。
まず一番に、携帯を開く。
開く?
「ガラケーよね」
ネイビーの二つ折り携帯。
確かにわたしが愛用していた、携帯電話だ。
日付を確認するために。
画面が点灯し、
わたしの心臓が、遅れて強く打った。
――5年前の、木曜日。
めぼしい着信は、まだ一件もない。
客からだけだ。
この時間、本来なら。
夫からの
「同伴終わった?」
という類のメッセージが必ずと言ってよいほど来ているはずだった。
まだ、来ていない。
逃げられる時間が、残っているように一瞬わたしには思えた。
だがそれが救いなのか、
それとも、より残酷な猶予なのか。
わたしは携帯を閉じ、ロッカーの鍵を握りしめた。
逃げるところなんて、どこにもない。
やり直したい過去なんて、ない。
造花の答え合わせ 倉田加奈 @kanakurata
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