第5話
こんなはずじゃなかった。
わたしは溜息とも喘ぎともつかない声を漏らす。
過去に戻してくれなど
誰が頼んだというのだ。
戻りたい過去などない。
どこで間違ったかなど
分かっているなら現実の世界でとっくにやり直せているはずだった。
明らかに
わたしは過去にいた。
「ナミさん…」
「どうしたの、ハナちゃんぼーっとして」
細面の、わたしより3つ年上のナミさんが
紫煙をくゆらせながらわたしの顔を覗き込む。
「いえ…今日…何曜日でしたっけ」
ナミさんは訝しげな表情をして答える、木曜日だけど。
何月何日とは尋ねられない。
でもナミさんがオレンジのドレスを着てわたしの横で煙草を吸っている
あの頃の髪型 あの頃のドレス 恐る恐る足元を見ればグラデーションのヒール。
「でしたね…酔ったかなぁ」
「ハナちゃん 平日でも同伴決めるもんねえ」
ナミさんは、あまり関心なさげに、まあまたハナが不思議なこと言い出した、と言いたげに煙草を腰丈の灰皿に押し付け、非常階段のドアを開ける。
重い鉄の音がして、わたしは非常階段に一人きりになった。
かすかに漏れてくるユーロビート。
ああ…
「過去…だわ」
5年前
位だろうか。いつかの木曜日。わたしはどうやら同伴をして、その客が帰ったのか、非常階段の喫煙所で一息ついていたようだ。
「大森さんかな…いやそんなことより」
同伴の相手は
などと見当違いなことを呟き首を振る。
「どうして…」
何故わたしが過去に。
わたしは眠りにつく直前だったはずだ。
利き手の反対側にわずかな重みを感じ、腕時計を見る。
0時。
時間はそのままだ。
「過去に…バカみたい」
非常階段は外だけあって、寒かった。
露出の多いドレス姿では、冷えて当然だ。赤と黒の、レースのドレス。
気に入って散々重宝していたミニのドレスだ。
わたしが過去に。
やり直したいなんて、思ってもいないのに。
木曜日では
なかったはずだ。
日曜日から月曜日にかけての夜中
日付が変わる直前だったはずだ。
いつもわたしが密かに怯えていた
月曜日の朝が何時間後かには来るはずだった。
「捕まるなら 朝8時くらいじゃねえの。まぁ曜日は関係ないと思うけど」
夫の言葉が
脳裏をよぎる。
わたしもこっそりインターネットで調べたものだ。週明けの朝が一番可能性が高いと。
罪状は詐欺か、そうでなければ横領だ。
金絡みなのは
間違いなかった。
「もしかして…」
積もり積もった密かな怯えが
わたしを月曜日の朝から脱出させたのか。
でも物理的にも科学的にも
それが有り得ないことくらい、わずかに酔ったわたしにも分かる。
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