第5話 あの音
二日後の午後八時。
わたしはフレイザー先生の研究室を訪れた。
部屋に入り、まず目に入ったのは年代物と思しき長机の上に置かれた花瓶、そこに一輪だけさされていた紫色の花だった。
初めて目にした花だが、先生によるとオダマキという花らしい。
一方、先生の事務机には何故か水を張った金魚鉢が置かれてある。
どのような心境の変化だろうか。
一応、先生に聞いてみたが、先生は静かに首を横に振っただけだった。
その後は、フレイザー先生は書物を読み始め、わたしはスマホをいじるだけとなった。
何のために、こんな時間にこんな所にいるのやら。
ひょっとしたら、やっぱりバカにされているんじゃないかと思い始めた、わたしの耳に。
聞こえる。
あの音だ。
わたしの耳奥から、何かを打ち付けるような奇怪な音が響いてくる。
思わず、先生に声をかけようと腰を上げようとした、その時だった。
「来ましたね」
フレイザー先生が本から顔を上げ、そう呟いたのと同時に、研究室のドアが荒々しく開け放たれた。
心臓を押さえながらドアの方に振り向いたわたしの目の前に。
若い男が、立っていた。
男は上下ともジャージ姿で中肉中背、目はうつろで焦点が定まらず、何事かブツブツとつぶやきながら、ずるずると這うように研究室に入ってくる。
右手で胸を、左手で口を押えながら、わたしはゆっくり、ゆっくりと部屋の右手に移動しつつ、男の様子を
待て。
この男性、何処かで会ったような……。
パニックになりそうな脳の記憶回路をフル回転させて、わたしは目の前の男性の顔を思い起こす。
あった。
「清野、さん?」
思わず口から洩れたその言葉に反応した男が、ゆっくりとわたしの方へ向き直り、両手を胸の高さまで上げ、交差させたかと思うと、数度、手の甲を打ち合わせた。
ぺち、ぺち。
この音、だ。
わたしの耳の奥から聞こえていたのは、この音だ。
唖然とするわたしの目の端で、それまで平然としていたフレイザー先生が、おもむろに右手に握っていたティーカップを手にし、金魚鉢の中に入れて水を
「
そう言い放つや、フレイザー先生はカップの水を左側から右に向かって男に放った。
ふっ、と
男の姿が、消えた。
何事が起ったのか、未だ理解できないまま男が立っていた場所を見たわたしの背中を冷たいものが走った。
フレイザー先生が放った水でソファーや床には水滴がついていたが、男が立っていた場所には水玉ひとつ落ちていない。
つまり、実際に男はこの部屋の中にいて、水を浴びたことになる。
硬直したまま動けないわたしの目の前で、フレイザー先生が壁面の書庫に並んでいる本についた水雫をハンカチで拭きとっていた。
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