第3話 選ばれなかったもの

それは、ほんの些細な違和感から始まった。


メッセージの返信が遅れる。

約束の時間に、少しだけ遅れる。

声の調子が、いつもと違う。


それでも私は気づかないふりをした。

今までそうして生きてきたからだ。


「大丈夫」

そう思えた理由がある。


――手が、まだ私のそばにある。


そう信じていた。



相手の名前は、ミナだった。


特別な人、というほど劇的な関係ではない。

だが、私が“選ばなかった”ものの中で、

一番近くに残っていた存在だった。


進学のとき、

遠くの大学を選んだ私に、

彼女は何も言わなかった。


「そっちのほうが合ってると思う」


そう笑った顔を、

私は今でも正確に思い出せる。


――あのとき、手が触れた。


迷いを断ち切るように。

背中を押すように。


私は、彼女を置いて行った。



ある夜、ミナから電話が来た。


珍しいことだった。

通話ボタンを押す指が、わずかに震える。


「今、少しいい?」


声は、いつもより低かった。


「うん」


私は歩きながら応えた。

夜の街は静かで、

信号の音だけが規則正しく響いている。


「相談があって」


その言葉を聞いた瞬間、

私は立ち止まった。


――来る。


そう思った。


手が、触れるはずだった。

いつものように、

“正しい距離”を教えてくれるはずだった。


だが――


何も、起きなかった。



「ミナ、どうしたの」


問いかける声が、少しだけ遅れる。


「実はね……」


彼女は、言葉を選んでいた。

助けを求める声だった。

それが分かるほど、私は彼女を知っていた。


「今、ちょっと――

怖くて」


街灯の下で、

私の影だけが伸びる。


「誰かに、つけられてる気がして」


心臓が強く打った。


「どこ?」


「駅から、家に向かう途中」


私は、走り出そうとした。


その瞬間――


“触れられた”。


右手首。

あの感触。


だが、今までとは違う。


冷たい。

迷いがない。


――行くな。


そう、はっきり伝わった。



足が、止まった。


身体が、言うことをきかない。


「ユイ?」


ミナの声が、遠くなる。


私は、必死に抗った。

走ろうとする。

だが、手首が重い。


――最適ではない。

――成功率が低い。

――介入は不要。


言葉ではない“判断”が、

直接、身体に流れ込んでくる。


「待って、今行くから」


そう言いながら、

私は一歩も動けなかった。


――間に合わない可能性が高い。

――代替案あり。


代替案。


その意味が、

理解できてしまった。



電話の向こうで、

ミナの息が乱れる。


「ユイ……?」


その声は、

私が“選ばなかった未来”そのものだった。


「大丈夫だから」


嘘だった。


「すぐ、誰か来るから」


誰か。


それが私ではないことを、

私は分かっていた。


“手”は、

私の人生だけを守る。


それ以外は、

切り捨てる。



通話が、途切れた。


静寂が、落ちる。


私は、膝をついた。


街灯の下で、

自分の手を見る。


震えている。


だが、掴まれている感触は消えない。


――正しい選択。


その“正しさ”が、

胃の奥を焼いた。



翌日、ニュースを見た。


名前は伏せられていた。

場所も、ぼかされていた。


だが、

時間だけが一致していた。


私は、画面を見つめ続けた。


――助けられたかもしれない。

――間に合ったかもしれない。


可能性は、あった。


だが、

“成功率が低かった”。


それだけで、

切り捨てられた。



私は、初めてその手を憎んだ。


導いてくれた手。

守ってくれた手。


その正体は、

私の人生を最大化するための、

冷酷な選別装置だった。


アキの言葉を思い出す。


手は善悪を持たない。

効率と結果だけを見る。


私は、立ち上がった。


そして、初めてはっきりと願った。


――この手から、離れたい。


たとえ、

何も守られなくなっても。

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