第2話 その手を持つもの
痕は、三日で消えた。
だが感触だけが残った。
夜、無意識に手首を撫でてしまうほどに。
それ以来、私は“手”を待つようになった。
危険な道をあえて選び、迷い、立ち止まる。
だが、触れられない。
初めてだった。
今まで一度も外したことのない保護が、外れている。
不安より先に、奇妙な焦りが湧いた。
まるで、見捨てられたような気分だった。
⸻
大学の講義が終わったあと、
私は人通りの少ない中庭を歩いていた。
石畳の中央、噴水の縁に、
一人の男が座っていた。
年齢は分からない。
学生にしては落ち着きすぎていて、
教員にしては若すぎる。
彼は、私を見るなり言った。
「君も、触れられてきた?」
心臓が跳ねた。
「……何の話ですか」
そう返しながら、私は無意識に距離を取っていた。
逃げようとした、その瞬間。
「手だよ」
男は自分の左手を持ち上げた。
何もない空間を、確かに“掴む”ような仕草で。
「見えないけど、分かるだろ」
背筋が凍った。
私は、初めてだった。
“手”の存在を、他人が口にしたのは。
⸻
彼の名は、アキと名乗った。
噴水の音が、妙に大きく聞こえる。
私は逃げるべきだと分かっていながら、
その場を動けなかった。
「君は、運がいい人生を歩いてきた」
断定だった。
占いのような曖昧さはない。
「事故を避け、選択を誤らず、
致命的な失敗をしていない」
全部、当たっていた。
「それはね、“導く手”がついているからだ」
私は笑おうとした。
冗談だと流す準備もしていた。
だが、次の言葉で喉が詰まった。
「でも最近、触れられてないだろ」
言い返せなかった。
⸻
アキは立ち上がり、私の正面に立つ。
「その手は、ずっと君を守ってきた」
「……なら、何が問題なんですか」
「守るだけならね」
彼は、一拍置いた。
「“選ぶ”ようになると、話が変わる」
噴水の水が跳ねる。
その音に紛れて、彼は続けた。
「手は善悪を持たない。
効率と結果だけを見る」
「君が最も生き残る道を、
最も“可能性が高い”方を選ぶ」
「たとえ――
誰かを切り捨てる結果でも」
私は、思い出していた。
あのとき。
進学で迷った友人。
選ばなかった恋。
助けられなかった誰か。
「……それでも、私は助かってきた」
震える声で、そう言った。
アキは、少しだけ目を伏せた。
「俺も、そう思ってた」
⸻
彼は、右袖をまくった。
手首から肘にかけて、
古い傷痕が幾重にも走っていた。
事故の痕ではない。
切り裂かれたような、
何度も“やり直した”痕。
「俺は、一度その手を拒んだ」
息を呑む。
「友達を助けるためにね」
結果は、語るまでもなかった。
「拒んだ瞬間、世界は不確実になった」
「守られない。
保証もない。
正解かどうか、誰も教えてくれない」
彼は、ゆっくりと拳を握る。
「でもな」
その拳は、空を掴んでいなかった。
「そのとき初めて、
“自分の人生を生きている”って感じた」
⸻
風が吹いた。
私は、自分の手を見下ろす。
きれいだ。
傷も、痕もない。
守られてきた証。
「……その手は、離れることを許さないって
言われてますよね」
アキは、微かに笑った。
「嘘じゃない」
「離れるには、代償がいる」
私は、嫌な予感を抱いた。
「導かれてきた選択すべてを、失う」
「成功も、偶然も、
“正しかったはずの人生”そのものを」
噴水の音が止まった。
いつの間にか、夕暮れだった。
「それでも」
アキは、私をまっすぐ見た。
「君は、もう気づいてる」
「最近、手が“選び始めてる”ことに」
胸の奥が、冷たくなった。
あの赤い痕。
そして、消えた接触。
――見捨てられたんじゃない。
――試されている。
私は、初めて確信した。
この人生は、
まだ“私のもの”じゃない。
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