第9話 | 経済の歯車、心のアクセル

「……緊急事態(エマージェンシー)か。供給曲線が、一気にボトムまで突き抜けたな」


午前0時15分。遼は大手町のオフィスビルの車寄せで、ハンドルを握り締めていた。

自動ドアから飛び出してきた凛は、ボロボロだった。ヒールがもつれ、いつも完璧に整えられていたシトラスの香りは、冷や汗と絶望の匂いに上書きされている。


「橘くん……っ、ごめん。もう、ダメかもしれない……」


後部座席に倒れ込んだ彼女の腕には、一束の分厚い資料。

「海外投資家向けの最終プレゼン資料、修正版のデータが飛んだの。バックアップも……サーバーエラーで。明日の朝一番までに作り直さないと、うちの会社、数千億の契約を逃す……」


凛の声は、今にも消えそうなほど細かった。震える指先が、遼の視界の端で痛々しく揺れる。


「……数千億の機会損失。そして、凛さんという人的資本の完全な喪失。これは看過できないマーケットの崩壊です」


遼の瞳に、かつてないほど鋭い「投資家」の光が宿った。

彼は188センチの体を俊敏に動かし、運転席のシートを最適の位置まで下げると、センターコンソールから一台の高性能なモバイルワークステーションを取り出した。


「実家で最新のITインフラを構築している僕の端末を使ってください。僕が、都内で最も『通信速度が安定し、かつ脳が活性化するスポット』へお連れします。凛さんはそこで、資料の復元に専念してください」


「えっ、でも……」


「凛さん。僕のハンドルを、信じてください」


アクセルを深く踏み込む。

エンジンの咆哮が深夜の大手町に響き渡る。遼は最短ルートをあえて捨てた。現在の渋滞予測、信号のサイクル、そして「凛の心が折れないための景色」を瞬時に逆算する。


車は首都高速を駆け上がり、夜の海へと向かった。

窓の外を流れるのは、光り輝くコンビナートと、漆黒の東京湾。

車内には、遼が用意した最高級のドリップコーヒーの香りが満ちる。


「……橘くん。なんで、ここまで……」


「言ったはずです。僕は貴女の『価値』に投資している。ここで貴女を挫けさせるのは、僕の人生における最大の運用ミスです」


遼のハンドル捌きは、もはや神の領域だった。

一切の振動を凛のタイピングに伝えず、それでいて猛烈なスピードで夜を切り裂いていく。


「……着きました。羽田空港、国際線ターミナルの最上階。ここは深夜、Wi-Fiの帯域が最も空いており、かつ、この夜景が脳のα波を最大化させます」


遼は車を止め、後部座席のドアを開けた。

そこには、滑走路を離陸していく飛行機の光の粒子と、無限に広がる星空があった。


「凛さん。僕はここで、貴女のガードマンとして待機します。データのアップロードが終わるまで、一秒のロスも許さない。……僕が、貴女の専属になります」


「……専属?」


「はい。タクシーの運転手としてだけではなく、貴女の人生という巨大なプロジェクトの、専属ロジスティクス、兼、メンタルコーチとして。……さあ、世界を動かしてきてください」


凛の瞳に、再び光が戻った。

彼女は遼から端末を受け取ると、狂ったようにキーボードを叩き始めた。

遼は車の外に立ち、188センチの長身で、夜風を遮るように凛を守った。

潮の香りと、ジェット燃料の匂い。そして、愛する女性が限界を超えて戦う熱気。


数時間が経過した。

空が白み始め、夜明けのブルーが世界を染め上げる頃。


「……送った。……橘くん、全部、送れたよ……!」


凛が車から飛び出し、遼の胸に飛び込んできた。

遼はその小さな体を、大きな腕でしっかりと受け止める。

彼のシャツには、凛の涙と、長い戦いを終えた安堵の体温が染み込んでいく。


「……投資、成功ですね」


「……バカ。最高のリターンだよ、橘くん」


朝焼けの滑走路で、二人は重なり合う影を一つにした。

合理的で、冷徹なはずの経済学者は、今、自分という全財産を、たった一人の女性に託す喜びを知った。


「凛さん。実家暮らしの僕の人生、これから『共同経営』に切り替えませんか?」


「……。指名料、すごく高いわよ?」


「望むところです。僕の終点(ゴール)は、もう決まっていますから」


22歳のドライバーは、朝の光に向かって、力強くアクセルを踏み込んだ。

二人の未来という、未踏のマーケットへと。


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