第10話 | 勝ち組の定義

「……午前8時00分。市場(マーケット)の開始と同時に、僕の人生の『新章』を上場させることにした」


都心の喧騒が始まる直前、橘遼は、実家のガレージで愛車のハンドルを握りしめていた。

188センチの長身。タクシードライバーとしての歩合給で積み上げた強固な資産。そして、何不自由ない実家のバックアップ。世間が呼ぶ「勝ち組」の条件はすべて揃っている。だが、遼の心臓は、どの経済指標の急騰よりも激しく、胸の裏側を叩いていた。


今日は、凛のプロジェクトが大成功を収めた後の、最初の休日だ。


遼は、最高級のアイロンがかかったシャツの袖をまくり、助手席に用意した一輪の青い薔薇――「不可能を可能にする」という花言葉を持つそれを見つめた。


「準備は整った。あとは、彼女という『不確実性』を、一生の『必然』に変えるだけだ」


待ち合わせ場所の代々木公園。初夏の陽光が、新緑の間から零れ落ちて、アスファルトの上に黄金のパッチワークを作っている。

凛は、少し遠くからでもわかるほど、晴れやかな笑顔で立っていた。仕事の重圧から解放され、その瞳は朝露のように澄んでいる。


「橘くん! お待たせ。……って、今日はタクシーじゃないんだ?」


「ええ。今日は『橘遼』という個人としての運行です。凛さん、目的地は設定済みです。乗っていただけますか?」


車が走り出す。車内には、凛のシトラスの香りと、遼が選んだ静かなバロック音楽が溶け合っていた。

遼はあえて、賑やかな大通りを避け、静かな住宅街を抜けていく。


「ねえ、橘くん。結局、橘くんにとっての『勝ち組』って何だったの? 高学歴で、実家があって、お金を稼いで……。それだけで十分、最強だったじゃない」


凛が窓の外を見つめながら、ふと問いかけた。

遼は、ハンドルを握る指先に、わずかに力を込めた。


「以前の僕なら、可処分所得と資産残高、そしてリスク回避の徹底こそが正解だと答えたでしょう。実家暮らしは固定費の最適化であり、タクシーは労働生産性の極大化。……でも、貴女を乗せて走るうちに、気づいたんです」


遼は、車を静かな展望公園の駐車場に止めた。眼下には、彼らが夜な夜な駆け抜けた、美しくも残酷な東京の全景が広がっている。


「本当の勝ち組とは、守るべき資産の多さではない。……自分の全財産を、全人生を、笑って賭けられる『対象』を持っているかどうかなんだ、と」


遼は車を降り、助手席のドアを開けた。

そして、戸惑う凛の前に立ち、その真っ直ぐな瞳を射抜くように見つめた。


「凛さん。僕は、高所得で、高身長で、実家もあります。でも、貴女が隣にいない人生は、中身のない空虚なハコモノ行政と同じです。……僕のこれからのキャッシュフロー、僕の全エネルギー、そして僕が握るハンドルの行き先を、すべて貴女に委ねたい」


遼は、青い薔薇を差し出した。

「僕の人生という経済圏の、共同経営者になってください。……愛しています、凛さん」


周囲の時間は、一瞬、止まったかのようだった。

風が吹き抜け、公園の木々がざわめく。凛の瞳に、じわりと涙が浮かび、それが頬を伝って零れ落ちた。


「……バカね。橘くん。そんなの、最初から債務超過だわ。私の人生、橘くんがいないと、もう一分も回らないのに」


凛は、遼の広い胸に思い切り飛び込んだ。

188センチの大きな体が、彼女の小さな体温で満たされる。

遼は彼女を抱き締め、その髪に顔を寄せた。そこには、どんな高級な芳香剤よりも、どんな経済の成功報酬よりも、彼を幸福にする香りがした。


「……計算、通りですか?」


凛が、遼の腕の中で悪戯っぽく笑う。


「いいえ。完全な想定外です。……でも、この『損失』なら、一生かけて返していけそうだ」


二人は、再び車に乗り込んだ。

これからの人生、予期せぬ不況もあれば、エンジンの故障もあるだろう。

けれど、実家というベースキャンプを持ち、タクシーという現場で培った「しなやかな強さ」を持つ22歳のドライバーには、もう恐れるものはない。


「さあ、出発しましょうか。共同経営者」


「ええ。行き先は、世界で一番幸せな場所へ!」


遼は、かつてないほど軽やかな動作でアクセルを踏んだ。

最強のスペックを携えた若きドライバーと、彼が選んだ最高のパートナー。

二人の物語という名のメーターは、今、無限の幸福を刻みながら、新しい未来へと力強く回り始めた。


東京の空は、どこまでも高く、青く、そして希望に満ちていた。


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**『初乗り、恋、そして経済。』―― 完 ――**


**全10話の完結、お疲れ様でした! 遼と凛の物語はいかがでしたか?

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