第8話 | 健康診断と、消えない不安

「……視力、聴力、深視力。すべて異常なし。だが、この『将来』という名の解像度だけが、どうにも低すぎるな」


区内の指定病院。健康診断を終えた遼は、無機質な廊下で診断結果の紙を見つめていた。2種免許の維持には、一般のドライバーよりも厳しい基準が求められる。タクシードライバーという職業は、己の肉体という「固定資産」が健全であって初めて成立する。


病院を出ると、湿った梅雨の空気が188センチの長身にまとわりついた。

実家の門をくぐり、自室のモニターの前に座る。3枚のディスプレイには、秒単位で動く世界のマーケット情報が映し出されている。いつもなら、この数字の海こそが彼の安息地だった。


しかし今、遼の指先はキーボードの上で止まっている。


「……僕が40代、50代になった時、このハンドルを握り続けている姿が、合理的な数式として導き出せない」


今の自分は「大卒、高身長、イケメン、高所得(歩合)」という希少性で、凛との時間を繋ぎ止めている。だが、彼女は商社のキャリアを駆け上がり、さらに広い世界を見ていく。一方の自分は、どれだけ稼ごうと、法的に定められた「運転時間」と「肉体の衰え」というサンクコストに縛られ続ける。


その夜、凛を乗せた車内は、いつになく静かだった。


「橘くん? 今日はなんだか、運転が……丁寧すぎるわ。まるで、壊れ物を運んでいるみたい」


バックミラー越しに、凛が心配そうに覗き込んでくる。

遼は代官山の緩やかな坂道を、吸い付くような低速で下っていた。


「……プロですから。お客様という資産を毀損させるわけにはいきません」


「嘘。声が全然、合理的じゃない。何かあったんでしょ?」


遼は、信号待ちのわずかな隙に、ハンドルを握る手を一度離し、また握り直した。手のひらが、微かに汗ばんでいる。


「……凛さん。僕は今日、健康診断を受けてきました。そこで、ふと思ったんです。タクシードライバーという職業の『耐用年数』について。僕は今、貴女の隣にふさわしい人間であろうと、必死にレバレッジをかけている。でも、もし僕がハンドルを握れなくなったら、僕に残る『市場価値』は何なんだろうか、と」


「……。橘くん、それって、私との格差を気にしてるの?」


凛の声が、暗い車内に優しく、けれど鋭く突き刺さった。


「経済学的に言えば、貴女のキャリアは『右肩上がりの成長株』です。対して、僕の職能は、肉体という減価償却資産に依存している。この非対称な未来予測を前にして、今の僕の『勝ち組ごっこ』が、ひどく虚像に思えてきたんです。実家暮らしで浮かせた金でNISAを回して、効率よく稼いで……。でも、それって結局、貴女が生きている『本当の戦場』からは逃げているだけなんじゃないかって」


遼の言葉は、自己嫌悪という名の熱を帯びていた。

初めて見せる、22歳の「脆さ」。

いつもなら「投資効果が」と強がる唇が、今はわずかに震えている。


「橘くん、車、停めて」


「えっ、ですがここは駐停車禁止の……」


「いいから。停めて」


凛の強い口調に押され、遼は路肩に車を寄せた。ハザードランプのオレンジ色の光が、車内を一定のリズムで点滅させる。


凛は後部座席から、身を乗り出すようにして遼の肩を掴んだ。


「……橘くん。私の目を見て」


遼が振り返ると、そこには怒っているような、それでいて泣き出しそうなほど真剣な凛の顔があった。


「あんたが言ってるのは、ただの『計算上の不安』でしょ? 私は、あんたの年収や将来の資産価値と付き合ってるんじゃない。……深夜の雨の中で、絶望してた私を、あの理屈っぽい言葉で救い出してくれた、その『体温』と付き合ってるの」


「凛さん……」


「あんたが80歳になって、ハンドルを握れなくなって、ただの理屈っぽいおじいちゃんになっても、私はあんたに『私の人生のルート』を相談してると思う。……未来の時価総額なんてどうでもいい。今、私の隣でハンドルを握って、一緒に迷ってくれる橘遼っていう人間に、私は投資してるの。わかった?」


凛の手のひらの熱が、シャツ越しに遼の肩に伝わる。

その熱は、健康診断のどんな数値よりも鮮烈に、遼の「生存本能」を刺激した。

合理的ではない。期待値も計算できない。

けれど、この瞬間の充足感は、これまでの人生で積み上げてきたどんな「利益」よりも重い。


「……。参りました。完全な、オーバーロート(過剰融資)ですね。僕のような若造に、そんな高価な感情を……」


遼は、自分の大きな手を、肩に乗った凛の手の上に重ねた。

冷たいはずの自分の指が、彼女の熱を受けて、ゆっくりと溶けていく。


「……凛さん。僕の合理性は、今、完全に崩壊しました。でも、それでいい。僕の人生のポートフォリオ、半分を貴女に、もう半分をこのハンドルに。……残りの人生すべてを使って、貴女に損はさせないと誓います」


「ふふ、やっと橘くんらしい声に戻った」


凛が手を離し、座席に座り直す。

遼は、ゆっくりとハザードランプを消した。

消えない不安は、まだそこにある。けれど、それを「リスク」として排除するのではなく、二人で背負う「負債」として愛そう。そう決めた瞬間、フロントガラス越しに見える夜の街が、これまでとは違う色で輝き始めた。


「……目的地、変更します。最短ルートではありません。凛さんの未来に、僕が一番長く関われるルートへ」


「……。期待してるわよ、運転手さん」


再び動き出したタクシーは、梅雨の夜空を貫くように、力強く加速していった。


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