第7話 | 恋のライバルはエリート商社マン
「……現在時刻、午後10時15分。赤坂のアークヒルズ周辺は、残業を終えた『高額納税者』たちの焦燥感が供給過多になる時間帯だ」
遼は、JPN TAXIの車内で冷徹に街をスキャンしていた。
今夜の彼は、いつになく殺気立っている。理由は明白だ。先ほど凛から届いた「仕事の打ち上げで、先輩に送ってもらうことになりそう」という一通のメッセージ。
「……送る? 誰が。公共交通機関としてのタクシー以上に、安全で快適な移動手段がこの街にあるとでも言うのか」
ハンドルを握る指先が、無意識に強まる。
その時、迎賓館方面から、一台の高級外車と、それを見送るように手を挙げる男の影が見えた。いや、正確には「男にエスコートされながら、困ったように微笑む凛」の姿を。
「ターゲット確認」
遼は吸い込まれるように、そのベントレーのすぐ後ろに車をつけた。
自動ドアを開ける。凛をエスコートしていたのは、仕立ての良すぎる三つ揃えのスリーピースに身を包んだ男——凛の会社の先輩であり、若手エースと目される藤堂(とうどう)だった。
「……あ。橘くん!」
凛が驚き、そしてどこか救われたような表情で駆け寄ってくる。その後ろから、藤堂が値踏みするような視線で遼を見上げた。
「へぇ……。凛がいつも指名しているっていうのは、君のことか。ずいぶんと若いし、無駄に背が高いね」
藤堂は、懐から取り出した高級なシガレットケースを弄びながら、遼の188センチの体躯を鼻で笑った。車内に流れ込むのは、安物ではないがどこか鼻につく、独りよがりなウッディ系の香水。
「ご乗車ありがとうございます。橘です。藤堂様、目的地はどちらまで?」
遼は、感情を完全に排した「プロフェッショナルな声」で問いかけた。
「僕はいい。凛を、彼女のマンションまで。ああ、そうだ、運転手君。君は大学を出て、なぜこんな『誰でもできる仕事』をしているんだい? 凛みたいな優秀な女性には、もっと……そう、僕のような、世界を動かす歯車と釣り合う人間が必要だと思わないか?」
藤堂は、凛の肩に親しげに手を置こうとした。凛がわずかに身を引く。
遼の目の中で、青い火花が散った。
「藤堂様。……一つ、訂正を。この仕事は『誰でもできる』ものではありません。街の毛細血管を把握し、乗客のバイタルデータを読み取り、最適な時間投資を提案する。……言わば、都市のコンサルタントです」
「ハッ、コンサル? ただの運転手が言うねぇ。年収いくらだい? 500万? 600万? 僕のボーナス一回分にも満たないんじゃないか?」
凛が「先輩、もうやめてください!」と割って入るが、遼はそれを手で制した。
「年収というフローの数字だけで人を評価するのは、減価償却を無視したずさんな会計感覚ですね。僕は22歳、実家暮らし。固定費を極限まで抑え、可処分所得の多くを自己投資と資産運用に回しています。現在のB/S(貸借対照表)における自己資本比率、および将来のキャッシュフロー予測において、僕は貴方に引けを取っているとは思いません」
「……何?」
「何より、貴方は致命的なミスを犯している」
遼は車から降り、188センチの圧倒的な威圧感で藤堂の前に立った。
街灯の下、遼の整った顔立ちが、氷のような冷たさを帯びて藤堂を射抜く。
「……貴方の車内温度設定、およびその香水の強さは、凛さんの好感度を著しく下げています。今の彼女が必要としているのは、貴方の自慢話という名の『不要な情報』ではなく、静寂と、適切な湿度、そして明日への活力を蓄えるための『最短・最良の移動時間』です」
遼は流れるような動作で後部座席のドアを開けた。
「凛さん、どうぞ。今夜の運行ルートは、貴女の『心の平穏』を最優先にパッチを当ててあります。……藤堂様、接待お疲れ様でした。どうぞ、ご自身の高い年収で、美味しい深夜食でも召し上がってください。凛さんの時間は、僕が責任を持って運用します」
「……っ、君! 覚えておけよ!」
藤堂の捨て台詞を背に、遼はドアを閉めた。
車内に入ると、そこにはいつもの、静かで、清潔な空間が広がっていた。
「……ぷっ、あはははは!」
突然、凛が噴き出した。膝を叩いて、涙が出るほど笑っている。
「橘くん……最高。あんなに顔を真っ赤にした藤堂先輩、初めて見たわ。自己資本比率って……タクシーの中で聞く言葉じゃないよね」
「……。失礼しました。あまりに非合理なマウントを取られたので、つい、市場価格を正してしまいました」
「いいよ。すごく、かっこよかった。……ねえ、橘くん」
凛が、前部座席の遼の肩に、そっと顎を乗せるように身を乗り出してきた。
車内に広がるのは、先ほどの嫌な香水ではなく、遼が愛する凛自身の、あの柔らかなシトラスの香り。
「私、年収とか役職とか、そんな『スペック』に守られたいわけじゃないの。……私の小さな変化に気づいて、一緒に走ってくれる、世界一わがままなタクシードライバーがいい」
「……。凛さん。それは、僕に対する『永久指名』の宣言と受け取っても?」
「……。さあ、どうかな。橘くんの今後の『パフォーマンス』次第、かな」
遼は、ハンドルを握る手にぐっと力を込めた。
胸の奥で、どんな経済指標の急騰よりも激しい鼓動が鳴り響いている。
22歳の合理主義者は、エリート商社マンの放った言葉を、心のゴミ箱に捨て去った。
「承知しました。では、今夜は特別に……世界で一番贅沢な、回り道をして帰りましょうか」
「うん。……お願い」
夜の赤坂を、一台のタクシーが滑るように加速していく。
それは、どんな高級車よりも速く、どんなエリートよりも気高く、二人の未来へと向かっていた。
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