第6話 | 歩合給とデートの費用対効果

「……よし、今月の歩合給は目標値を二十二%オーバー。この余剰利益を、今日の『デート』という名の先行投資に全投入する」


鏡の前で、遼はタクシーの制服ではない、イタリア製のリネンシャツの襟を整えた。実家暮らしの特権——「可処分所得の極大化」が、今日の彼に圧倒的な自信を与えている。

188センチの長身が纏うのは、浮ついたブランド品ではない。素材の質、シルエットの曲線、そして相手に与える安心感という名の「信頼資本」を計算し尽くした装いだ。


待ち合わせは、銀座。

夕暮れ時の街角に立つ凛を見つけた瞬間、遼の心拍数が跳ね上がった。彼女は淡いベージュのワンピースに身を包み、初夏の風に髪をなびかせている。


「お待たせ、橘くん。……うわ、私服だと、なんだか別の経済圏の人みたいね」


凛がいたずらっぽく笑う。遼はスマートに歩み寄り、彼女の視線に合わせて少し腰を落とした。


「凛さん。今日の僕は、タクシードライバーではなく、一人の『投資家』として参りました。貴女との時間に、最高のリソースを投じる準備はできています」


案内したのは、ビルの最上階にある隠れ家的なフレンチだった。窓の外には、遼が夜な夜な客を乗せて走る東京の動脈——首都高速が、宝石を散りばめたような光の帯となって流れている。


「……すごい。ここ、予約取るの難しいんでしょ?」


「情報収集とネットワークの活用です。ベテランのゼンさんから、食通の客を乗せた時の『耳寄りなログ』を共有してもらいました。さあ、まずはシャンパンを。この銘柄は、現在の気圧と貴女の体調に最適な糖度を選んでいます」


グラスが触れ合い、チリンと高い音が鳴る。

泡の弾ける音が耳に心地よく、冷えた液体が喉を滑り落ちる。


「おいしい……。ねえ、橘くん。どうして私なんかに、こんなに背伸びした投資をしてくれるの? 私、ただのしがない商社員だよ」


「凛さん、それは自己評価のデフレが過ぎます。僕にとって、貴女は『将来有望な成長株』であり、同時に、僕のロジックを唯一狂わせる『ブラックスワン(予測不能な事象)』なんです。不確実性こそ、人生における最大のスパイスですから」


料理が運ばれてくるたびに、遼は完璧なタイミングで会話を添えた。

トリュフの芳醇な香り、熟成肉の濃厚な旨味。五感を揺さぶる体験の連続に、凛の頬が次第に薔薇色に染まっていく。


「……ねえ、橘くん。実家暮らしで、高身長で、こんなに稼げて、イケメン。正直、勝ち組すぎてムカつくくらいなんだけど。……悩みとか、ないの?」


凛がワイングラスを傾け、潤んだ瞳で遼を見つめた。

遼は一瞬、夜景に視線を移した。


「……ありますよ。僕の計算式には、いつも『自分の居場所』という変数が足りないんです。高学歴で、実家の資産もあって、タクシーを選んだ。周りからは『モラトリアムの贅沢』に見えるでしょう。でも、僕は……僕自身の力で、誰かの人生の最短ルートを、あるいは最も幸せな回り道を、エスコートしたい。それがタクシーのハンドルだったんです。……でも、貴女を乗せている時だけは、目的地に着いてほしくないと思ってしまう」


「橘くん……」


「これは、費用対効果で見れば最悪のジレンマです。時間が経てば経つほど、僕の心というポートフォリオは、貴女という存在に支配されていく」


遼の声が、わずかに熱を帯びる。

レストランの柔らかい照明の下、二人の距離が自然と縮まった。

デザートのフォンダンショコラから、甘く温かい湯気が立ち上る。凛はフォークを置き、遼の手首にそっと指先を触れた。あの深夜のタクシーの中で、彼を動揺させたあの体温だ。


「……計算、間違えてもいいよ。橘くんのポートフォリオ、私が全部買い占めちゃおうかな」


「……それは、敵対的買収(ホスタイル・テイクオーバー)ですか?」


「いいえ。……友好的な、パートナーシップの提案」


凛の瞳に、確かな決意の光が灯る。

遼は、自分の指先が震えていることに気づいた。時給数万円を叩き出す冷静なドライバーの手が、今はただ、目の前の女性を抱き寄せたいという原始的な欲求に突き動かされている。


会計を済ませ、店を出る。

夜の銀座の風は、少しだけ湿り気を帯びていた。


「橘くん、帰りも……送ってくれる?」


「もちろんです。ですが、今夜はタクシーではありません。……実家のガレージで眠っていた、僕の『プライベート・アセット』を出してきました」


駐車場に停まっていたのは、磨き上げられたビンテージのスポーツカー。

遼は助手席のドアを開け、凛をエスコートした。


「目的地は?」


「……橘くんの、一番好きな場所まで」


「承知しました。ルート設定——『二人の未来』。……到着時刻は、未定です」


アクセルを踏み込む。エンジンの咆哮が、静かな銀座の路地に響き渡った。

22歳の合理主義者は、ついに計算を捨てた。

この夜、彼が手に入れたのは、どんな歩合給よりも価値のある、たった一人の女性との、予測不能な旋律だった。


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