第5話 | 深夜2時のマーケット・ウォッチ

「午前2時。東京という巨大なマーケットが最も『本音』を漏らす時間帯だ」


遼は、深夜の静寂を切り裂くJPN TAXIの車内で、青白く光るメーターを見つめた。

街路灯の光が188センチの長身を交互に照らし、車内には実家の母が用意した高級ハーブティーの香りが、かすかな安らぎとして漂っている。


この時間の六本木や西麻布は、昼間の「建前」が剥がれ落ち、生々しい欲望と後悔がキャッシュフローとなって流動する。

すると、前方で千鳥足の男二人を抱えるようにして、一人の女性が必死に手を挙げていた。


「……ターゲット補足。だが、あのノイズ……ただの酔客ではないな」


遼は慎重に車を寄せた。自動ドアが開くと同時に、安っぽいウイスキーの刺激臭と、怒鳴り声が車内に押し寄せる。


「おい! 離せってんだよ! 俺の金だぞ、どう使おうが勝手だろ!」


「課長、落ち着いてください! もう店は閉まったんです!」


乗り込んできたのは、顔を真っ赤にした中年男性(課長)と、それをなだめる若手社員、そして困り果てた表情の凛だった。


「……凛さん?」


「えっ、橘くん!? どうしてここに……」


凛は驚きに目を見開いたが、すぐに状況の悪さに顔を歪めた。どうやら、プロジェクトから外された後に無理やり連れて行かれた、接待の三次会の帰りらしい。


「降りるぞ! 別の店に行くんだ! 運転手、早く出せ! 景気のいいところへな!」


課長と呼ばれた男が、遼の運転席の背もたれを激しく叩く。遼の脳内で、冷静な計算機が音を立てて回った。


「お客様、……課長様。一つ、経済学的なご提案をしてもよろしいでしょうか?」


「あぁ!? 運転手の分際で、経済だと?」


遼はゆっくりと振り返った。街灯の光が彼の端正な顔立ちをシャープに切り取り、その瞳は冷徹なまでの知性を宿している。


「現在、お客様の血中アルコール濃度は推定0.15パーセント。この状態での意思決定は、情報の非対称性以前に、自身のポートフォリオを破壊するリスクが極めて高い。つまり、今から新しい店に行くのは『サンクコスト(埋没費用)』にさらに追い銭を投じる、最悪の投資判断です」


「なんだと……?」


「凛さんのような優秀な部下を、この深夜2時まで拘束する機会費用も計算に入れてください。彼女の明日の労働生産性を毀損することは、貴方の部署のQ1(第一四半期)の利益を直接的に損なう行為です」


遼の声は低く、そして驚くほど響いた。

狭い車内に、遼の圧倒的な「個」の圧力が満ちる。課長は、遼の188センチという体格と、その理論整然とした物言いに気圧され、毒気を抜かれたように座席に沈み込んだ。


「……。利益、損なう……?」


「はい。今すぐご帰宅され、睡眠という名の『内部留保』に努めることが、現時点で最も高いROI(投資利益率)を生みます。凛さん、お客様の住所を」


「あ、はい! 目黒区の……」


凛が住所を告げると、遼は流れるような動作でギアを入れた。

車は夜の闇を滑るように走り出す。遼はあえて、後部座席に落ち着きを与えるジャズを微かな音量で流した。


「……橘くん、すごかったわね。あんな言い方、私にはできない」


凛が小声で、運転席の遼に語りかける。彼女の瞳には、尊敬と、そしてどこか誇らしげな光が宿っていた。


「僕はただ、不合理なリソースの浪費を指摘したまでです。……それより、凛さん。香水を変えましたか?」


「えっ? ……うん。少しだけ、落ち着いたウッド系に。よく気づいたわね」


「鼻腔を刺激する分子の構成が変われば、データとして蓄積されます。……今日の凛さんは、昨日の雨上がりの匂いとは違う。戦う準備を終えた、『反転攻勢』の匂いがします」


遼の言葉に、凛は小さく笑った。その笑い声は、深夜のタクシーという密室で、遼の心拍数を確実に狂わせていく。


「反転攻勢、か。そうね。橘くんに見せてもらったあの夜景、無駄にしないって決めたから」


車は目黒の閑静な住宅街に到着した。課長を部下が抱えて降ろすと、最後に凛が残った。


「橘くん。これ、今日の運賃と……さっきの『コンサル料』」


彼女が差し出したのは、昨日と同じチップではない。綺麗にラッピングされた、小さなチョコレートの箱だった。


「実家暮らしの君は、甘いものなんて自分では買わないでしょ? 脳のエネルギー、補給して」


「……あ。ありがとうございます。これは、想定外のインセンティブですね」


凛が車を降り、夜の静寂の中に消えていく。

遼は一人になった車内で、そのチョコレートの箱を見つめた。

深夜2時のマーケット・ウォッチ。

欲望と怒号が渦巻くこの街で、彼は今日、目に見える数字以上の「リターン」を手に入れた。


「……甘いものは、非効率だと思っていたんだが」


一粒、口に放り込む。

濃厚なカカオの香りと、凛の気遣いが溶け合い、遼の味覚を優しく刺激する。

それは、どんな経済指標よりも確実に、22歳のドライバーの心を「勝ち組」へと導いていく甘美な味だった。


「さて。残りの営業時間も、最適に稼がせてもらうか」


遼は再びアクセルを踏んだ。

テールランプの赤い光が、深夜の東京を美しく、そして合理的に彩っていく。


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