第4話 | ベテランたちの流儀
「おい、橘。お前の走りは綺麗すぎるんだよ。まるで算数のノートみたいだ」
昼下がりの青梅街道。タクシー専用の休憩スペースで、遼は隣に並んだ旧型セダンの主――通称「ゼンさん」こと、善吉に呼び止められた。ゼンさんはこの道四十年の大ベテランで、日焼けした肌とタコのできた手がその歴史を物語っている。
「ゼンさん。算数のノートのどこが悪いんですか。最短距離、最小燃料、最大利益。これこそがタクシー経営の最適解でしょう」
遼は、実家から持参したオーガニックコーヒーをマイボトルから一口含み、冷静に返した。
「ハッ、理屈は立派だがよ。お前の車、客の『匂い』を無視してねえか?」
「匂い? 空調は常に24度に設定し、プラズマクラスターもフル稼働ですが」
「そうじゃねえよ」
ゼンさんは、安物の缶コーヒーを煽ると、新宿のビル群を指差した。
「この街にはな、絶望の匂い、野心の匂い、そして恋に破れた奴の、焦げ付いたような匂いが漂ってんだ。データには出ねえ『人間の体温』ってやつがある。それを読み違えると、お前はそのうち大損するぞ」
遼は鼻で笑った。データこそが真実だ。感情という不確定要素を排除してこそ、安定した利回りが得られる。そう確信していた。
しかし、その夜。遼の「最適解」が通用しない事態が起きた。
夜の銀座。指定配車で現れたのは、凛だった。だが、いつもの快活な彼女ではない。肩を落とし、ハイヒールの足取りは重い。車内に流れ込んできたのは、冷えた雨の匂いと、凛の重苦しい溜息だった。
「……凛さん。丸の内まででよろしいですか?」
「……。どこでもいいわ。橘くん、どこか、誰もいないところへ連れて行って」
「目的地不明の運行は、収益性を著しく低下させます。それに、深夜の彷徨は安全上のリスクが……」
「お願い。今だけは、経済学なんて聞きたくないの」
凛の声が震えていた。バックミラー越しに見る彼女の瞳には、涙が溜まっている。
遼の指先が、ハンドル上でわずかに強張った。データなら「最短ルートで送り届けて降車させる」が正解だ。しかし、ゼンさんの言葉が脳裏をよぎる。
(客の匂いを無視してねえか?)
「……承知しました。ルート変更。目的地は、僕の『シークレット・スポット』に設定します」
遼は、最短ルートのナビを無視し、首都高速の入り口へと車を滑り込ませた。
「橘くん、どこへ行くの?」
「現在、凛さんの精神的資産が著しく毀損していると判断しました。このまま帰宅しても、明日の労働生産性は回復しません。一時的な『損切り』として、夜景という非課税の報酬を受け取りに行きます」
車は湾岸エリアへ向かう。
遼は、ゼンさんの「流儀」を思い出しながら、あえて少しだけ窓を開けた。湿った夜風が車内をかき回し、都会の喧騒が遠ざかっていく。
「ゼンさんに言われたんです。データには出ない体温がある、と。今の凛さんからは、……雨上がりのアスファルトみたいな、寂しい匂いがします」
「……。私、プロジェクトから外されたの。私がずっと温めてきた企画、上司のコネで入ってきた新人に奪われちゃった。……頑張れば報われるなんて、古いデータだったみたいね」
凛の声が、暗い車内で静かに弾けた。
遼は、いつもなら「それは社内政治におけるリスクマネジメントの失敗ですね」と突き放すところだった。だが、言葉が出てこない。胸の奥が、まるでエンジンの不完全燃焼のように熱くて苦しい。
「……古いデータではありません。それは、市場が一時的に歪んでいるだけです。凛さんという銘柄の本質的価値は、そんなことでは1パーセントも下落しません」
「……橘くん」
「僕も、ゼンさんに教わりました。タクシーはただの人運びじゃない。人生の『中継地点』なんだと。……見てください」
車が辰巳のパーキングエリアに入り、正面に巨大な倉庫群と、その先に光るタワーマンションの群れが現れた。
「ここは、僕が一人で経済の動向を考える場所です。誰もいません。ここでなら、いくら泣いても、それは『経費』として認められます」
凛は、窓の外の夜景を見つめながら、ついに声を上げて泣き出した。
遼は黙って、実家から持ち出した最高級のパイル地のタオルを差し出した。
彼女の泣き声が、エンジンのアイドリング音に混ざって響く。遼は、188センチの体を運転席で小さくし、ただその時間を「共有」した。
どれくらいの時間が経っただろうか。
凛が涙を拭い、ふぅ、と長い息を吐いた。
「……ごめん。情けないところ見せちゃった」
「いえ。デトックスによるリフレッシュ効果は絶大です。凛さんの顔色が、数パーセントですが明るくなりました」
「ふふ、やっぱり最後は数字なのね。……でも、ありがとう。橘くんのおかげで、明日また会社に行けそう」
車を出す際、遼は無線でゼンさんに心の中で礼を言った。
帰り道、凛は後部座席で静かに寝息を立て始めた。
その顔は、出会った時よりもずっと穏やかで。
遼は、速度をさらに一定に保ち、彼女の眠りを守るように走った。
「最短」ではない。「最適」でもない。
ただ、彼女にとって「最も心地よい」ルート。
(ゼンさん。データは重要です。でも……それをどう使うかは、結局『人間』なんですね)
実家に戻り、自分の部屋で今日の営業日報をつける。
凛との時間は、収益としてはマイナスだ。高速代も、ガソリン代もかさんだ。
しかし、遼の心の中のバランスシートには、計り知れないほどの「暖簾(のれん)」――目に見えない資産が計上されていた。
「……次は、彼女を笑顔にするルートを構築しよう」
22歳の合理主義者は、ゼンさんというベテランの流儀を、自分なりの「最新データ」として取り込み、また一歩、タクシードライバーとして、そして一人の男として、成長していく。
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