第3話 | 最短ルート、最適ルート

「橘くん、おはよう。今日も……完璧なタイミングね」


初夏の朝、恵比寿の静かな住宅街。マンションの入り口に滑り込ませた黒塗りのJPN TAXIの前で、凛が少し照れくさそうに笑った。

遼は運転席から降り、188センチの身体を折り曲げるようにして、うやうやしく後部座席のドアを開ける。


「おはようございます、凛さん。午前8時15分。予定より3分早い到着です。信号待ちのサイクルを計算し、明治通りの渋滞を予測した結果、この時間が貴女の『セロトニン分泌』に最も寄与すると判断しました」


「……相変わらずね。でも、助かるわ。今朝、大事な会議があるの」


凛が車内に滑り込む。今朝の彼女からは、シトラス系の爽やかな香りがした。昨夜の甘い香りとは違う、戦いに向かうビジネスパーソンの香りだ。


車が走り出す。遼は、加速のGを指先の感覚だけで殺し、氷の上を滑るようなスムーズな発進を見せた。


「橘くん、今日はいつもの『最短ルート』じゃないわね? 明治通りを外れて、代々木公園の方に向かってる?」


「お気づきですか。最短距離は4.2キロ、所要時間は通常12分。ですが、今日の凛さんの顔色、および声の周波数を分析した結果、ルートを300メートル延長し、所要時間を4分増やす『最適ルート』を選択しました」


「最適ルート? 会議に遅れたら、私の経済価値は暴落しちゃうんだけど?」


凛が冗談めかして言うが、その瞳には隠しきれない緊張の色があった。遼はバックミラー越しに、その微かな揺れを捉える。


「ご安心を。バッファは十分に確保しています。見てください、左側を」


車は、新緑が眩しい代々木公園の脇を通り抜けていた。窓から差し込む木漏れ日が、凛の膝の上でダンスを踊るように明滅する。遼は、あえて窓を数センチだけ下げた。


「……あ、風が気持ちいい」


「初夏の朝の空気、および緑のフラクタル構造は、視覚と嗅覚を通じて脳内のストレスホルモンであるコルチゾールを低減させます。会議前の4分間、殺伐としたコンクリートの景色を見るよりも、この『緑の投資』の方が、最終的なアウトプットの質を高めるはずです」


「……理屈っぽいけど、確かに。なんだか、肩の力が抜けてきたかも」


凛が座席に深く体を預け、大きく深呼吸をする。遼は、その吐息の音を耳にしながら、心の中でガッツポーズを作った。彼にとって、客の感情をコントロールすることは、株価のトレンドを読み当てるよりも困難で、そして……遥かに刺激的な作業だった。


「ねえ、橘くん。どうして私にそこまでしてくれるの? 他のドライバーさんなら、言われた通りに最短で走るだけなのに」


「僕は効率を愛していますが、無機質な数字だけの世界には興味がありません。タクシーという密室において、ドライバーと乗客は一時的な共同体です。凛さんのパフォーマンスが向上すれば、それは社会全体のGDPに微塵ながら貢献する。……というのは建前で」


遼はハンドルを切りながら、少しだけ声を低くした。


「単に、僕の車を降りる時の貴女が、一番いいコンディションであってほしい。……僕の『顧客満足度』というプライドの問題です」


「……ふふ、何それ。やっぱり橘くんは、世界一生意気な運転手さんね」


凛の笑い声が、車内の狭い空間に満ちる。その振動が、遼の背中に心地よく伝わった。

しかし、そんな穏やかな空気は、一通のメッセージ通知によって破られる。凛のスマホが、無機質なバイブ音を鳴らした。


画面を覗き込んだ凛の表情が、一瞬で凍りつく。


「……嘘。会議の場所、本社じゃなくて丸の内の分室に変更!? 開始15分前なのに……橘くん、どうしよう!」


「……情報更新を確認。目的地を丸の内一丁目に変更します。現在地からの距離、および渋滞状況を再計算……。凛さん、シートベルトをしっかり確認してください」


「えっ、間に合うの?」


「最短ルートは捨てます。ですが、僕が知る『最適ルート』なら可能です。……凛さん、僕の運転、信じていただけますか?」


遼の目が、獲物を狙う鷹のように鋭くなった。


「……信じるわ。お願い、橘くん!」


そこからの遼のハンドル捌きは、まさに神業だった。

大通りを避け、タクシー運転手しか知らないような入り組んだ路地を、巨大な車体を感じさせない身軽さで潜り抜けていく。

急ブレーキは一度も踏まない。なのに、景色が猛烈なスピードで後ろへ流れていく。


「あそこの信号、変わるわよ!」


「計算内です。あそこは右折車線が詰まる傾向にありますが、手前のガソリンスタンドの角を曲がれば回避できます。……凛さん、喉が渇いていませんか? センターコンソールに、常温のシリカ水を用意してあります。脳の血流を安定させてください」


「あ、ありがとう……って、そんなことまで用意してるの!?」


「準備はリスクヘッジの基本です」


車は首都高の高架下を抜け、丸の内のビル群の間を弾丸のように進む。

遼の指先は、まるでピアノを奏でるように細かく、かつ大胆にハンドルとシフトを操っていた。


「……到着です。8時57分。開始3分前、投資成功です」


分室のビル前に車が止まると同時に、遼はドアを開けた。

凛は呆気にとられた表情で、目の前のデジタル時計を見つめる。


「……信じられない。本当に間に合った……。橘くん、あなた、魔法使いか何かなの?」


「いいえ。ただの、実家暮らしの経済オタクです。さあ、行ってください。今日の凛さんの価値は、ここからストップ高になるはずです」


凛は車を降り際、遼のネクタイを軽く整えた。


「……ありがとう。橘くん。今夜、また連絡してもいい?」


「……指名料は、貴女の笑顔で十分です」


凛がビルの中へ駆け出していくのを見送り、遼は大きく息を吐き出した。

ハンドルを握っていた手のひらは、じっとりと汗ばんでいる。


「……心拍数120。燃料消費率は悪化。……だが、得られたリターンは計り知れない」


遼は、彼女が座っていたシートに残る、微かなシトラスの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

合理的であるはずの彼が、今、最も不合理な「無償の奉仕」に喜びを感じている。


「……さて。次は、どのルートで彼女を驚かせようか」


22歳のドライバーは、バックミラーに映る自分の顔が、かつてないほど「いい男」になっていることに気づき、小さく苦笑した。


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