第2話 | 実家暮らしは、究極の経済学
「……ふぅ、今日の営業利益は、目標を15%上振れたか」
深夜三時。世田谷区の閑静な住宅街にある橘家の門を、遼は静かに開けた。築三十年、白壁の立派な洋館だが、メンテナンスが行き届いているのは、遼が「資産価値の維持」を口酸白く両親に説いているからだ。
家に入ると、まず鼻をくすぐったのは、微かな白檀の香りと、高性能空気清浄機が作り出す無機質な空気。玄関のタイルは冷たく、仕事で張り詰めた足の裏を心地よく冷やしてくれる。
「おかえり、遼。遅かったわね」
リビングのソファで、シルクのガウンを羽織った母・美智子がハーブティーを飲んでいた。
「母さん、まだ起きてたの。睡眠不足は美容という人的資本を毀損するよ。……はい、これ、今月の居住費と食費、光熱費の按分」
遼は、きっちり新札で揃えられた五万円をテーブルに置いた。
「もう、いいわよそんなの。就職祝いくらいさせてちょうだい。大体、タクシーなんて……お父様も心配してるわ。一流大学を出て、なぜハンドルを握るのかって」
「母さん、それは偏見だよ。僕が選んだのは『移動』という普遍的インフラの最前線だ。しかも実家に住むことで、年間で百五十万以上の固定費を浮かせている。これを複利5%で運用すれば、十年後にはどうなると思う?」
遼は冷蔵庫を開け、自分専用のスペースから「最適化された栄養素」とマジックで書かれたタッパーを取り出す。中身は、鶏胸肉とブロッコリーのボイルだ。
「……味気ないわねぇ。お肉、焼いてあげましょうか?」
「いいえ。深夜の飽和脂肪酸摂取は、翌日の集中力と代謝効率を低下させる。これが僕の、究極の経済学(ホーム・エコノミクス)だ。親の資産を活用しつつ、自らの余剰資金を最大化する。甘えているんじゃない、最適化しているんだよ」
翌朝。遼は自分の部屋で、三枚のモニターを前にしていた。
一枚には昨夜のタクシーの走行データ。一枚には米国株のチャート。そしてもう一枚には、なぜか昨夜の客・凛が残した「一万円札」の写真。
「……計算が合わない」
彼は、指先でキーボードを叩く。昨夜のチップ、8,200円。
単なる「酔っ払いの失態」として処理するには、あの手首に触れた熱量があまりに鮮明すぎた。あの瞬間の心拍数の上昇を、彼はまだ「不整脈」という言葉で片付けられずにいる。
「遼! 遼ちゃん、大変よ!」
母が部屋に飛び込んできた。手にはスマホ。
「あなた、昨日、結城商事の凛さんを乗せたの!? 私のテニス仲間の娘さんなのよ!」
遼の心臓が、文字通り「跳ねた」。
「……結城商事? ああ、あの泥酔していた……いえ、過剰投資をしていた女性か」
「あの子、昨日大事なプレゼンに遅れそうになって、その後自暴自棄になってたらしいの。でも、乗ったタクシーの運転手さんがすごく素敵で、元気づけられたって、お母様に連絡があったんですって! 今日の夜、また『配車をお願いしたい』って指名が入ってるわよ。個人的に」
「……指名? タクシーアプリを介さず、実家ルートでの直営業か。極めて非効率だが……」
遼は、クローゼットからアイロンのきいた制服を取り出した。鏡に映る自分の顔は、合理的とは思えないほど、わずかに緩んでいる。
「……市場のニーズには応えるのがプロだ。母さん、今夜の夕食はいらない。彼女の『買い増し』に付き合ってから、深夜のマーケットを流す」
夕暮れ時、遼は指定された恵比寿のオフィスビル前に車をつけた。
自動ドアが開く前に、凛が駆け寄ってくるのが見えた。昨夜の乱れた姿とは打って変わり、タイトなスーツに身を包んだ彼女は、凛烈な美しさを放っている。
「本当に来てくれた……! 橘くん、だよね? 昨日は、その……ごめん。チップ、多すぎたでしょ」
凛が後部座席に滑り込む。車内に広がるのは、昨夜と同じ香水の香り。だが、今日はアルコールの匂いはない。代わりに、仕事終わりの少し疲れた、けれど前向きな体温の匂いがした。
「計算上は、チップというよりは『贈与』の域でした。今日は、どこへ? 最短ルートをご希望ですか、それとも……」
「……橘くんにお任せ。一番、経済が動いている場所を見せて」
遼は、バックミラー越しに彼女の瞳を見た。茶色い瞳が、期待に揺れている。
「承知しました。では、現代の資本主義が最も激しく脈打つ場所……『欲望のキャッシュフロー』を巡るルートをご案内します」
車が走り出す。遼の大きな手が、精密機械のようにシフトレバーを動かす。
「ねえ、橘くん。どうしてそんなに落ち着いてるの? 22歳で、そんなに背が高くてイケメンなら、もっと、こう、チャラチャラしてもいいのに」
「チャラチャラすることは、リターンの低い時間投資です。僕は、自分の市場価値を理解している。だからこそ、それを安売りせず、実家という強固なBS(貸借対照表)を背景に、長期的なキャピタルゲインを狙っているんです」
「……やっぱり、変な子。でも、その自信、嫌いじゃないわ」
凛が笑った。その笑い声は、高級車の遮音性を突き抜けて、遼の耳の奥に心地よく響く。
彼はあえて、夜景が最も美しく見えるレインボーブリッジへと車を向けた。
「橘くん、見て! 綺麗……」
「……はい、綺麗ですね。電気代の無駄、という視点もありますが、これだけの照明が灯っているということは、それだけの経済活動が維持されている証拠です。そして……」
遼は、サイドミラーを確認しながら、声を低めた。
「それを隣で見ているあなたの横顔の『時価』は、今、この瞬間、確実に高騰しています」
「……えっ」
凛が絶句する。遼は、自分の口から出た非論理的な言葉に驚きつつも、ハンドルを握る手に力を込めた。
「お客様、……いえ、凛さん。実家暮らしの僕の人生に、あなたは計算不可能な『変数』として入り込んできました。このリスク、どうヘッジすべきか、今夜じっくり考えさせてください」
レインボーブリッジの光が、二人の横顔を白く照らし出す。
22歳の合理主義者は、生まれて初めて「予算オーバー」の恋に、アクセルを踏み込もうとしていた。
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