『初乗り、恋、そして経済。—高身長すぎる22歳のタクシー御曹司(仮)は、実家で経済を回す—』

春秋花壇

第1話 | 初乗り、運賃、恋の予感?

「タクシードライバーの平均年齢は59.7歳。つまり、22歳の僕がここにいるだけで、この空間の希少価値は跳ね上がる。これは市場の歪みを利用した、極めて合理的な生存戦略だ」


五月の爽やかな夜風を切り裂き、橘遼は最新型のトヨタ・JPN TAXIを滑らせていた。

188センチの長身を、調整しきったシートに深く預ける。オーダーメイドの紺色のスーツは、タクシー会社の制服とは思えないほど彼の手足の長さを際立たせていた。


「実家暮らしで固定費はゼロ。厚生年金と健康保険は会社折半。その上で、都心の深夜需要を歩合で刈り取る。……完璧だ。経済を学ぶなら、教科書の中よりこのハンドルを握っている方がよっぽど情報の密度が高い」


遼は、長い指でハンドルを叩きながら、深夜の六本木交差点を流していた。

すると、歩道のガードレールに寄りかかるようにして、激しく手を振る人影が視界に入る。

視力1.5の瞳が、その姿を瞬時に捉えた。


「ターゲット確認。需要と供給の合致だ」


ハザードランプを点滅させ、静かに左側に寄せる。

自動ドアがプシュッと音を立てて開くと、夜の都会の熱気と共に、濃厚な香水の香りと、それを上書きするほどの強いアルコールの匂いが車内に流れ込んできた。


「……あ、うぅ。すみませーん、乗ります……っ」


なだれ込むように後部座席に倒れ込んできたのは、乱れた髪の間から覗く整った顔立ちの女性だった。タイトなタイトスカートから伸びる脚は驚くほど白く、細い。


「ご乗車ありがとうございます。どちらまで?」


遼が冷静に、かつ低く心地よい声で問いかけると、女性――結城凛は、座席に顔を埋めたまま、うわ言のように呟いた。


「……恵比寿。恵比寿の、ガーデンプレイスの近く……。あと、止まらないで。気持ち悪いから、ゆっくり、揺らさないで……」


「承知しました。恵比寿まで、加速度を一定に保つ等速度運動を心がけます。体調が優れないようですので、エチケット袋は座席ポケットに。空調は強めますか?」


「……声、いいわね。でも、難しいこと言わないで。頭に響く……」


車が滑り出す。

遼は、路面の凹凸を網膜でスキャンするように先読みし、ブレーキペダルをミリ単位で調整した。G(重力加速度)を極限まで抑えた走りは、もはや芸術的ですらある。


「……ねえ、運転手さん。あなた、若い? 渋い声してるけど、なんだか……いい匂いする」


凛が、ふらふらと体を起こし、バックミラー越しに遼と目を合わせた。その瞳は潤み、熱を帯びている。


「22歳です。大学を卒業したばかりで。匂いは……恐らく、実家で母が焚いているアロマか、柔軟剤の影響かと。僕は生活コストを抑えるため、実家のリソースをフル活用していますから」


「にじゅうに……? 若っ! え、嘘。大学生のバイト?……あ、でも二種免許って、もっと上でしょ?」


「法改正のおかげですよ。特例教習を受ければ19歳から取得可能です。僕は効率を重視するので、最短ルートでこの席に座りました。同世代が就活で疲弊している間に、僕は現場でリアルな経済指標を収集している。これこそが、情報の非対称性を利用した勝ち組の立ち回りです」


「……何それ。理屈っぽ……。でも、顔、めちゃくちゃいいわね。モデルさんみたい」


凛は、窓枠に肘をつき、とろんとした目で遼の後頭部を見つめた。

車内には、彼女の吐息と、かすかな衣擦れの音が響く。遼は、自分の心拍数がわずかに上昇するのを感じた。


「……お客様。あまりじろじろ見られると、安全運転に支障をきたします。僕の容姿は、この仕事において『信頼感』という付加価値を生むためのツールに過ぎません」


「ふーん。じゃあ、その付加価値に投資してあげる。……ねえ、私、今日、仕事で大失敗したの。同期が昇進して、私だけ取り残されて。……経済学的に言うと、私の価値って、もう下落の一途かな?」


凛の声が、急に小さくなった。

アルコールの勢いで隠していた、剥き出しの孤独が車内に溢れ出す。


遼は、赤信号で止まる際、あえて数秒かけて減速し、彼女が前につんのめらないよう細心の注意を払った。


「経済学の観点から言えば、一時的な株価の下落は、買い増しのチャンスでしかありません。自己資本比率……つまり、あなた自身の芯がしっかりしているなら、外部評価という変動相場に一喜一憂するのは非合理的です」


「……買い増し?」


「はい。今のあなたには、休息という名の設備投資が必要です。……到着しました。運賃は1,800円ですが、深夜料金を含めても、この快適な移動時間は妥当な対価だと思われますか?」


凛は、バッグから財布を取り出そうとして、そのまま遼の腕を掴んだ。

タクシーの運転手と客を仕切る防犯ボードの隙間から、彼女の熱い指先が遼の手首に触れる。


「……ねえ、橘くん。橘……遼くん。名札、見たわ」


「はい」


「あなた、面白い。理屈っぽくて、生意気で、……でも、運転、全然怖くなかった。……これ、お釣りいらないから」


彼女は一万円札を無造作にトレーに置くと、ドアが開くのを待たず、ふらつきながら車を降りた。


「あ、お客様! 8,200円のチップは過剰投資です! 利回りが合いません!」


遼が窓から声をかけるが、彼女は背中でひらひらと手を振り、恵比寿の夜の闇に消えていった。

後に残されたのは、一万円札と、彼女が座っていたシートに残る甘く切ない香水の余韻だけ。


遼は、手首に残る彼女の体温を、無意識に指でなぞった。


「……8,200円。時給に換算すれば凄まじい数字だ。だけど、この胸のざわつきは、どの数式にも当てはまらない」


彼は、ダッシュボードの計器を確認した。

燃料は十分。タイヤの空気圧も正常。

しかし、22歳のタクシードライバーの人生という名のメーターは、今、予想だにしない急加速を始めようとしていた。


「実家暮らしの僕にとって、予測不能なリスクは避けるべき事項だったはずなんだがな……」


遼は一人ごちると、再び「空車」のボタンを押し、夜の街へとアクセルを踏み込んだ。

次の角を曲がれば、また新しい需要が待っている。

だが、彼が求めているのは、もう先ほどの「過剰投資な女性」の再来であることに、経済学の天才はまだ気づいていなかった。


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