第4話 幕間〜白石ひより〜

壊す側を選んだ夜は静謐だった。



 白石ひよりは、自分が壊れているとは思っていなかった。


 ただ、世界が間違っているだけだと…そう信じていた。


     *


 夜の部屋は静かだった。


 時計の針が進む音は無音では無く。

 カーテン越しの街灯は明るい。

 スマホの画面だけが、白く光っている部屋。


 通知は来ていない。


 …来るはずがない。


 それでも、ひよりは何度も画面を点けては消した。


 期待しているわけじゃない。

 そう言い聞かせる。


 ただ、無視されている事実を確認しているだけ。


     *


 柳瀬と初めて話した日のことを、ひよりはよく覚えていない。


 覚えているのは、彼が自分を見た、その視線だけだ。


「白石さんってさ、静かだよね」


 それだけ。


 褒められたわけでも、好意を向けられたわけでもない。


 なのに、胸の奥で、何かが許可された気がした。


 ――見ていい。

 ――考えていい。

 ――想ってもいい。


 誰もくれなかった許可を、彼は無意識に与えたのだった。


     *


 ひよりは、柳瀬に触れられていない。


 キスも、抱擁も、ない。


 それでも、一番奥に、深く、侵入されたのは、自分だと分かっていた。


 話しかけられるたび、呼吸が乱れた。


 笑われるたび、自分の価値が上がった気がした。


 選ばれている。


 その錯覚だけで、自分の世界が耐えられるものになった。


     *


 刺した、刺していない。


 そんな話は、どうでもいい。


 重要なのは、刃物を持ったという事実だ。


 ひよりは、キッチンで包丁を握った。


 重さは、現実だった。


 これだけが、嘘じゃなかった。


「…これで」


 声は、震えていなかった。


「これで、やっと」


 私は被害者じゃなくなる。


     *


 ひよりは知っている。


 自分が壊れたのは、柳瀬のせいじゃない。


 彼は、壊れやすい場所を見つけるのが上手かっただけだ。


 壊れた人間を壊したまま放置するのが上手。


 だから、終わらせる必要があった。


 恋でも、復讐でもない。


 それは…後始末だ。


     *


 夜道を歩く。


 街は、驚くほど普通だった。


 笑う人。

 光る自販機。

 走り去る車。


やたらと目についた。


 世界は、誰が壊れようと、何も変えない。


 …だったら。


 ひよりは、自分で変えるしかなかった。


     *


 柳瀬の名前を、ひよりは心の中で呼ばなかった。


 呼んだら、また想っている側に戻ってしまう。


 それだけは、嫌だった。


 刃物を握る手に…力を込める。


 壊す側になると決めた瞬間。

 ひよりの中で、何かが静かに死んだ。


     *


 翌朝。


 白石ひよりは、何もなかった顔で登校した。


 誰も、気づかない。


 彼女がもう、戻れない場所を選んだことに。


 廊下の向こうに、葉風涼の姿が見えた。


 彼だけは、なぜか目を逸らさなかった。


 その視線に、ひよりは初めて、わずかに心を動かした。


 ――この人は。


 壊れた私を壊れたまま、見ている。


 それが、救いになるのか。


 それとも。

 次の破壊の始まりなのか。


 ひよりには、まだ分からなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る