第5話

体験入部が始まる日。

朝の空は薄い水色で、雲がゆっくり流れていた。


彩葉は、いつもより少しだけ早く家を出た。

胸の奥が落ち着かない。

昨日の合奏の音が、まだ耳の奥に残っている。


(……行くって、決めたわけじゃないのに)


足は自然と学校へ向かっていた。


昇降口の壁には、体験入部の案内が貼られている。

吹奏楽部のポスターには、

「見学だけでもOK!」

と大きく書かれていた。


その文字を見た瞬間、胸が少しだけ軽くなる。


(……見学なら、いいのかな)


教室に入ると、ゆなが机に突っ伏していた。


「……おはよ」


「おはよー……眠い……」


「……今日、体験入部だね」


「そうそう。私、友達に誘われて美術部行くかも」


「……そっか」


ゆなは彩葉の顔をじっと見た。


「彩葉は?行くとこ決めた?」


「……まだ」


本当は、昨日の音が気になって仕方ない。

でも、それを言う勇気はなかった。


放課後。

ゆなと別れたあと、彩葉はゆっくりと体育館のほうへ歩いた。


(……行くだけ。見るだけ)


自分に言い聞かせながら、足を進める。


体育館の扉は開いていて、中から明るい声が聞こえた。


「体験の子、こっちだよー!」

「楽器触ってみていいよ!」


先輩たちの声が、楽しそうに響いている。


彩葉は、扉の前で立ち止まった。

心臓が、どくどくと速くなる。


(……帰ろうかな)


そう思った瞬間、背後から声がした。


「見学の子?」


振り向くと、明るい笑顔の先輩が立っていた。

名札には 松本ひより と書かれている。


「よかったら、中どうぞ。無理に触らなくてもいいからね」


その声は、驚くほど優しかった。


彩葉は、小さくうなずいた。


体育館の中は、思っていたよりも広くて、明るかった。

いろんな楽器が並んでいて、先輩たちが楽しそうに説明している。


その奥に——

打楽器パートがあった。


ティンパニ。

スネア。

シンバル。

見たことのない楽器もある。


胸の奥が、じんわり熱くなる。


(……ここだ)


昨日の音。

校庭で聞いたメドレー。

全部、この場所につながっている。


「打楽器、気になる?」


ひより先輩が、そっと声をかけてくれた。


「……はい。ちょっとだけ」


「じゃあ、触ってみる?」


「……触る……?」


「うん。軽くでいいよ。音、出してみる?」


彩葉は、ティンパニの前に立った。

近くで見ると、思っていたより大きい。

皮の張った面が、光をやわらかく反射している。


ひより先輩が、スティックを渡してくれた。


「ここを、そっと叩いてみて」


彩葉は、震える指先でスティックを握った。

深呼吸をして、そっと腕を動かす。


トン……。


小さな音。

でも、胸の奥にまっすぐ届いた。


(……あ)


昨日聞いた音とは違う。

でも、確かに同じ場所に響いた。


ひより先輩が微笑む。


「いい音だよ」


彩葉は、言葉が出なかった。

ただ、胸の奥がじんわりと温かくなる。


(……もっと、叩いてみたい)


自分でも驚くような気持ちが、静かに浮かんだ。


彩葉は、もう一度だけスティックを持ち直した。


彩葉は、もう一度スティックを握った。

指先が少し震えている。

でも、さっきよりも“逃げたい”気持ちは弱かった。


ひより先輩が、そっと横に立つ。


「力は入れなくていいよ。ティンパニって、優しく叩いても響くから」


彩葉は、小さくうなずいた。

深呼吸をして、腕をゆっくり動かす。


トン……。


さっきよりも、少しだけ大きい音。

でも、やっぱり胸の奥にまっすぐ届く。


(……なんでだろ)


自分が出した音なのに、

自分のものじゃないみたいに胸が熱くなる。


ひより先輩が、柔らかく笑った。


「うん、いいよ。最初はそれで十分」


「……はい」


そのとき、体育館の奥から落ち着いた声がした。


「ひより、その子、体験の子?」


振り向くと、

長い髪をひとつに結んだ、背の高い女子の先輩がいた。

名札には 美咲 と書かれている。


ひより先輩が言う。


「うん。ティンパニ触ってみたいって」


美咲先輩は、彩葉をちらりと見た。

鋭い目つきに見えるけれど、

その奥に優しさがあるのがわかる。


「……いいね。ティンパニは、ちゃんと向き合えば応えてくれるよ」


その声は落ち着いていて、

体育館の空気が少しだけ引き締まる。


彩葉は思わず背筋を伸ばした。


美咲先輩は、ティンパニの横に立ち、

軽くスティックを持ち直した。


「こうやって、腕の重さを使うの。力じゃなくて、流れ」


トン……。


同じ楽器とは思えないほど、深くて温かい音が響いた。


(……すごい)


胸の奥が、じんわり震える。


ひより先輩が、そっと彩葉の背中を押す。


「やってみる?」


彩葉は、もう一度スティックを握った。

さっきよりも、ほんの少しだけ強く。


トン……。


今度の音は、さっきよりも深く響いた。

体育館の空気が、ほんの少しだけ震えた気がした。


美咲先輩が、静かにうなずく。


「うん。悪くない。初めてなら十分すぎるよ」


ひより先輩が嬉しそうに笑う。


「ね、楽しいでしょ?」


彩葉は、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じながら、小さく答えた。


「……はい。楽しい、です」


その言葉は、

自分でも驚くほど素直だった。


(……もっと、叩いてみたい)


その気持ちは、昨日よりも、

さっきよりも、ずっとはっきりしていた。

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