第2話

翌朝。

家を出た瞬間、ひんやりした空気が頬に触れた。

春なのに、少し冷たい。


彩葉は、制服の袖をぎゅっと握った。

歩くスピードは自然とゆっくりになる。


(……今日から、授業が始まるんだ)


そう思うだけで、胸の奥がざわつく。

昨日よりも緊張している気がした。


校門をくぐると、昇降口の壁に色とりどりの紙が貼られているのが見えた。

昨日は気づかなかった。


近づくと、大きな文字が目に入る。


「部活動紹介 来週スタート」


その下に、いくつものポスターが並んでいた。

吹奏楽部のポスターには、金色の楽器と笑顔の先輩たち。

端のほうに、ティンパニとスネアの写真が小さく載っている。


彩葉は、ほんの一瞬だけ足を止めた。

でも、すぐに視線をそらして歩き出す。


(……昨日の音)


胸の奥が、かすかにざわっとした。

けれど、立ち止まって見つめる勇気はまだない。


教室に入ると、ゆながもう席にいた。

机に突っ伏して、眠そうにしている。


「……おはよ」


「ん……あ、おはよ、彩葉」


ゆなは顔を上げて、少しだけ笑った。

その笑顔に、彩葉の肩の力が少し抜ける。


「早いね、今日」


「……なんか、目が覚めちゃって」


「わかる。私も緊張でさ……」


そこで会話が止まる。

沈黙が落ちるけれど、昨日よりは少しだけ楽な沈黙。


ホームルームが始まり、担任の佐伯先生が教室に入ってきた。

黒板に名前を書きながら、落ち着いた声で話し始める。


見た目は少し怖いけれど、話し方は意外と優しい。

それでも、自己紹介の順番が近づくにつれて、心臓がどんどん速くなる。


「次、藤宮さん」


「……はい」


立ち上がると、足が少し震えた。


「藤宮彩葉です。よろしくお願いします……」


声は小さかったけれど、先生はちゃんとうなずいてくれた。

それだけで、胸の奥が少し温かくなる。


午前の授業が終わり、昼休み。

ゆなとお弁当を食べながら、彩葉はぼんやりと窓の外を見ていた。


(……あの音、なんだったんだろ)


昨日の太鼓の音が、まだ胸の奥に残っている。

重くて、温かくて、まっすぐな音。


「彩葉、聞いてる?」


「……あ、ごめん。ぼーっとしてた」


「大丈夫?寝不足?」


「……ううん。なんでもない」


言えなかった。

自分でもよくわからない気持ちだから。


放課後。

ゆなと別れ、昇降口へ向かう。

帰るだけのつもりだったのに、気づけば昨日と同じ方向へ歩いていた。


体育館の前。


今日は扉が閉まっていて、音も聞こえない。

でも、なぜか足が止まる。


掲示板に貼られた吹奏楽部のポスターが、風に揺れていた。


「打楽器パート大歓迎!」


ティンパニの写真が、昨日よりも近くに見える。


彩葉は、しばらく立ち止まったまま動けなかった。


(……気になる)


でも、手を伸ばす勇気はまだない。


昨日の音が、胸の奥で静かに響いている気がした。


(私……どうしたいんだろ)


答えはまだ出ない。

でも、昨日より少しだけ、心が前に向いている気がした。


彩葉は小さく息を吸い、ゆっくりと帰り道へ歩き出した。

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