第6話 泉野翠と三波善

 スイとの勉強会は、翌日から始まった。スイは真新しいピンク色のペンケースと、きっちり尖った三角鉛筆、青白黒のスリーブに入った角ばった消しゴム、チューリップの写真が表紙の学習帳を持参してきた。三角鉛筆、学習帳、十数年ぶりに見た。少なくとも、当然、大学構内には売っていない。一体どこから調達してきたんだ。

 前日までの怯えたような姿はどこへやら。スイは前のめりになって、俺のペン先をじっと見つめている。研究室の備品になっている大学名のロゴ入りのボールペンも、ここまでの期待を背負うには荷が重いだろう。


「まずは自分の名前から、かな」

「名前…」

 スイはペン先から視線を離さずにつぶやく。

「イズミノ、スイ」

 いずみの すい。スイのノートにひらがなで記す。その様子をスイはずっと目で追っていた。

「漢字なら泉野、かな、多分」

 続けて泉野、とノートに書き出す。正確性のためにあとでバリエーションを調べる必要はあるが、真っ先に思い浮かぶ字はこれだ。

「スイは…」

 ペンが止まる。現代において、人名には多くのバリエーションがある。スイとは、どんな字で書くのだろう。

「スイは、何か、自分の名前の意味とかって聞いたことある?」

 尋ねると、スイは一瞬思案したように視線を彷徨わせて、ゆっくりと口を開いた。

「おかあさんが、わたしの目をみて決めたって…。わたしの目とおなじ色の、宝石の名前」

 なるほど、と思った。スイの目の色は、はじめて見たときから印象に残っている。薄暗い準備室では陰になって日本人らしい黒色に見えるが、春の光をまといながら講義を聞いているスイの目は、宝石のような深い緑色だ。

「そうか、…『翠』だ」

 スイに筆跡を見守られながら、苗字の横に書き加える。これで、スイの名前が完成した。

 泉野翠。

「書いてみる?」

 俺の言葉に、スイは小さく頷いて、新品の三角鉛筆を握る。桃色の爪先が白色にかわるくらい強く持って、ゆっくり、少しずつ、線を足していく。

 最後の一画を書き終えて、スイは自分の字と、俺のお手本を交互に見た。

「うん、書けたね」

 俺の言葉に、スイは顔を上げた。宝石のような瞳がまっすぐ向けられる。そして照れくさそうに、再びうつむいた。

 文字を知らない少女がはじめて書いた、自分の名前。陳腐な感想かもしれないが、とても、きれいな名前だと思った。

 

「…ゼンの、字は?」

 スイの視線が、また俺のペン先に落とされる。それに促されるように、スイの名前の下に、書き慣れた自分の名前を書いた。

 三波善。

「善は、…よいことって意味」

 スイの綺麗な名前に比べて、単純な名前だ。見てわかる通りの、そのままの意味。親が願った、子が善く生きていけるように。ただそれだけ。

 視線は俯いたまま、書き足された三文字をじっと見つめて、スイは言った。

「よいことって何?」

「…え、」

 予想外の質問に面食らってしまった。よいこととは何か。非常に哲学的な問いだ。

 スイの真っすぐな言葉、純粋な疑問に、答えなければいけないと思う。それでも言葉が出なかった。ゴミを片付けること、一生懸命学業に励むこと、あるいは少女に文字を教えること。これは善いことだ。それでも、そんな単純な話でないことは、考えなくても分かる。

「…ちょっと、難しい質問だな…よいことっていうのは一律で定めることはできなくて、立場や状況によってかなり、変わる」

「…?どういうこと」

「いや、…難しくて、今は、俺には答えられないってことだよ」

「…」

 スイは首を傾げながら、俺の名前をじっと見つめていた。見たままの意味の単純な名前を。そしてもう一度三角鉛筆を握って、ノートに鉛筆の先を置いた。

「書くの?」

「うん」

 スイは一画ずつ丁寧に、俺の名前を書きとった。一度、二度、三度。自身の名前よりも多く、繰り返し書かれていく俺の名前。どこか気恥ずかしくて、静止したくなる。

「そんなに書かなくてもいいよ」

 それでも、スイは書き取りをやめることはしなかった。真剣な表情のまま、同じ動作を繰り返していく。

「…ゼンの名前、覚えたい」

 そう言われると、それ以上は何も言えなかった。純粋な、勉強への興味。講義室で、前のめりになって学ぶ少女を誰も邪魔できなかったように、スイの純粋さを咎めることなど、俺には不可能だった。

 俺の名前だけでノートのマス目が埋まるころに、ようやく満足したスイは鉛筆を置いた。

「…マリノが、ゼンは頭がいいって言ってた。…トビキュウ、わからないけど、頭がいいと、トビキュウするんだよね」

「…」

 違う、と言いかけた。俺はとりわけ、優秀なわけではない。俺よりも短い勉強時間で、俺なんかよりずっと優秀な人間はたくさんいた。ただ俺は、机に長時間向かうことが、性に合っていた。ずっと短所だと思っていた、集中するあまり周囲の状況にまったく気を配れなくなる性質が、学業に関してだけは、たまたまいい方向に働いた。飛び級したのも、その分の学費が節約できると聞いて、それに飛びついただけだ。

「…ゼンにもわからないことが、あるんだね」

 そんな当たり前のことを言って、スイはやわく笑った。

「…そりゃああるよ、たくさん」

 言いかけた言葉は出てこなかった。はじめて見るスイの笑顔が、あまりにも綺麗だったからだ。無邪気で、こどもみたいな、幼い笑顔。おそらく中高生くらいの年齢の少女に、あまりにも不似合いな感想かもしれないけれど。赤ん坊が笑いかけてくれたみたいな、そんな美しさがあった。

 まだ、分からないことだらけだ。

 分からないことだらけだから、金もないのに就職しないで、研究なんかしているんだよ。


「…そうだ」

 そういえば、と思い、ポケットに手を入れる。チョコレートが入っている。勉強と言えば甘いものだと、キシがくれたものだ。頭脳労働にはエネルギーが必要だというのは、俺も普段から実感している。

 プラスチックで包まれたチョコレートを机に出すと、スイはそれを、まじまじと見た。

「チョコレート、食べる?」

 スイは無言で、一口サイズのチョコレートをじっと観察する。立方体のそれを360度しっかり見つめて、そして、俯いた。

「た、べない…」

「あれっ」

 嫌いだったか、と思う。スイみたいな年齢の子は、みんなこういうのが好きだと勝手に思っていた。

「すき、だけど。…食べない」

「…」

 何か事情があって食べられないのか。アレルギーとか、何かそういう。

 それか、出所のわからない、しかも関係性も浅い男からもらった食べ物は食べられないと、そういうことか。そんな可能性に思い至ってしまって、少しへこむ。一応このチョコレートは、俺ではなくキシの机で保管されていたものだから、汚くはないはずだと、心の中で言い訳をする。それに、研究が忙しくて1日2日着替えないこともあるが、最近はちゃんと洋服を洗っている。この服も、今朝変えたばかりだ。

 …と、そこまで考えて、変な思考になっていることを自覚する。サカイが言った「不潔が一番嫌われる」という言葉のせいだ。チョコレートについて、それ以上の詮索はやめておくことにした。

 ——隣の部屋、研究室のドアが開く音がする。誰かが登校してきたのだろう。時計を見ると、ちょうど8時半を示していた。研究室が動き出す時間は決まっていないし、徹夜も日常茶飯事のめちゃくちゃなところだけれど、それでも学生が活動を始めるには妥当な時間だ。

 スイとの勉強会は、今日のところはお開きにした。


 研究室に入ってきたキシに、チョコレートを返却する。

「あれ、彼女、食べなかったの」

 意外そうに言ったキシはそのまま包み紙をあけて、自分の口に放り込んだ。

「ダイエット中とか?」

「いや、それはないでしょ…どう見ても子供だし、痩せる必要があるようには見えないし」

「あれくらいの子って普通にダイエットするでしょ」

「えっそうなの?」

「うん」

 うちの妹もさー、まだ中学生なのに、カロリーがどうとか言ってるもん。キシはそう言いながら、プラスチックの包装紙を指でもてあそんでいる。

 そういうものなのか、と思う。子供でもダイエットをするなんて、なんだか不健全な気がするけれど。スイは細くて小さいから、むしろもっと食べたほうがいいなんて、余計なことを思った。

「いやゼン、お前が言うなよ」

 いつの間にか登校してきたサカイも、会話に加わっている。一瞬心を読まれたのかと思ったが、当然サカイはエスパーではない。となると、思考はすべて口に出ていたらしい。

「ヒョロガリのお前が言っても説得力ないだろ。お前こそもっとカロリー摂れよ。今度3人で二郎行こ」

「いや俺相当食べてるけど、というか、ヒョロガリ…!?」

「事実だろ。工学部に100人いる顔しやがって。ゼンは知らないだろうけど、二郎は完全栄養食だから」

 それもまた、随分極端な思想な気がする。それでも、向かいのキシも笑いながら頷いていたから、もしかしたら一般的な男子大学生の感覚なのかもしれなかった。

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