第5話 文字を知らない少女


 いつものようにパソコンに向き合っていると、研究室の扉がノックされた。

 ここを訪れる人は滅多にいないし、サカイもキシも、律儀にノックをして入ってくるようなことはしない。不審に思いはしたが、無視するわけにもいかず、座席を立って扉を開ける。

 そこには、あの少女、スイが立っていた。

「あ、きみは…」

 声をかけると、俯いたまま、スイはびくりと体を震わせる。俺の視線より少し低い位置に、スイのつむじが見える。髪が顔にかかっていて、表情はよく見えない。手を後ろで組んで、不安そうに重心をぶらぶらさせていた。

「…」

「…」

 沈黙。壁掛け時計がきっちりと1秒を刻む音だけが響いていた。スイの不安、緊張感がこちらにも伝わってくるようで、なぜか俺も押し黙ってしまう。

 重い空気を破ったのは、スイの震える声だった。

「ハンカチ、戻ってきた…」

 確かに、スイの後ろ手の中には、ピンク色のハンカチが握られていた。確かめるみたいに、刺繡のざらざらした部分を指でなぞっている。

「…無事に戻ってよかったよ」

 なるほど、それをわざわざ伝えに来たのか。研究室は工学部棟の中でも奥まったところにある。すぐそばで研究用のサンプルという名の、一般的には危険物と呼ばれるものが保管してあるから、人通りが極端に少ない場所に設けられている。だから、スイはわざわざこの場所に、ハンカチが戻ったと言うためだけに来たのだ。

 そしてスイはパーカーのポケットから、俺が渡したメモ用紙を取り出した。ハンカチと一緒にマリノに手渡した、補講の予定が書いてあるメモ用紙。几帳面に四つに畳まれた小さな紙を、おずおずと広げる。

「…これ、なんて書いてあるの…?」

「えっ」

 「これ」とは、何のことだ?と一瞬思うが、すぐにメモ用紙の内容であると思い直す。それ以外に考えられない。ただ、いくら走り書きの文字とはいえ、読めないほどだろうか。字が綺麗だと褒められたことはないし、小学校時代から、「もっと丁寧に書きましょう」との教師の評価は変わらなかったが、このメモに関しては、人に見せる前提で、読める程度で書いたつもりだ。

 スイの表情は相変わらず見えない。


「これ、字だよね。字、わたし、わからない…」

「…え、」

 字、わたし、わからない。つまり文字が分からない。スイは確かにそう言った。

 このご時世、そんなことがあり得るだろうか。識字率がほぼ100%といわれるこの国で、少女は字が分からないと言った。

 海外暮らしが長いとか?いや、それなら「日本語が分からない」と言うはずだ。少なくとも、スイは文字を知らない。

 それか、何かの事情があって、不登校だったとか?それでも、数字とひらがなくらいであれば、今どき未就学児でも理解しているはずだ。

 どうして、と言いかけたが、その瞬間に脳裏によぎる。例えば貧困とか、特殊な家庭環境とか、何らかの障害があるとか。そういったセンシティブな可能性だって当然考えられることで、それを、目の前の少女に尋ねる気にはならなかった。


「えーっと、この間、授業休みになったから、今週の木曜日に補講があるって」

 一旦、内容だけ伝えることにした。

「ホコウ?」

「休んだ分の振り替えで授業があるんだよ、場所はいつもと同じ」

 スイの視線は、変わらずメモ用紙に落とされている。言われた内容とメモを見比べているようだった。

 しばらく押し黙ったあと、スイはゆっくり、口を開いた。

「…あなた、ゼン、は、字が書けるの…?」

「まあ、人並みには…」

 最近はパソコンかスマホでの入力ばかりで、一部の漢字を忘れかけているという感覚はあるが。字が書けるか書けないかと言われれば、生活に支障がない程度には、まあ。

「…」

 スイは再び押し黙る。メモ用紙の下になっているハンカチを、再び指でなぞっている。桃色の爪が小刻みに震えていた。怯える少女を眼前に、なんだか俺が悪いことをしているような気分になる。

 どういう事情か分からないが、スイは文字に興味があるのかもしれない。講義のあと、ホワイトボードを綺麗にしている俺を射貫くように、じっと見つめる姿が思い浮かんだ。もしかしてあれは、俺の背中ではなく、ホワイトボードの文字を見ていた?


「よかったら教えようか、字」

 そう言ったのは完全に出来心だった。文字に興味がある、というのは俺の予想でしかない。断られるかもしれないとも思った。

 それでも、スイははじかれたように顔を上げた。

「いいの…!?」

 ——ばちり、深い緑色の瞳と、目が合った。はじめてそれを見たときも思ったが、不思議なくらい綺麗だ。本物を見たことはないけれど、きっと宝石はこんなふうに輝くのだと思った。液晶だけが光っている、薄暗い研究室の中で。スイの瞳がきらきらと輝いていた。

 教授の話を、食べるみたいに聞き入るスイの姿が思い浮かんだ。知らないことがある、それを知りたい。その感情には心当たりがある。自分もずっと、そうだ。


 講義や研究とかぶらない朝の時間に、少女と勉強会をすることになった。そう伝えると、サカイとキシは、意味が分からない、という顔をした。

「えっなんで?成り行きでそんなことになる?」

 怪訝な顔のまま、キシは机に肘をついた。勉強会は、二人が来る前の時間に行う。なるべく迷惑にならないようにするよ、と言うと、そういうこと聞きたいんじゃないよ、と言われた。

 バン!と、突然鳴り響いた強い音に、びくり、肩が震える。音のした方を見ると、サカイが机に両手をついて、わなわなと震えていた。

「つまり女の子が来るってこと?」

 聞いたこともないような低い声に、思わず気圧される。スイの性別が、何の問題になるのだろうか。

「…うん、まあ」

 先程の強い音は、サカイが机を叩いた音らしかった。俯いたままのサカイからは表情は見えないのに、殺気すら感じる。

「ゼン、片付けろ」

「えっ」

 言われた意味がよくわからず戸惑っていると、サカイは勢いよく立ち上がった。そのまま俺の机の、エナドリ缶タワーに手を伸ばす。

「こんな腐海一歩手前みたいな場所に女の子を呼べるか。頼むからゼン、片付けろ」

「別に良くないか…?」

「お前バカか!不潔が一番嫌われるぞ」

 積みあがった空き缶、紙類はみるみるうちに撤去された。ついでに我関せずと作業を続けるナグモ女史のデスク周辺にも手が入り、「待て邪魔だ!計算に集中できない!」「計算やめてこっち見ろって言ってんですよ!プロテインシェイカーは毎日洗えって言ってますよね、くっせえ、捨てますからね!」ととんでもないやり取りが繰り広げられている。最近の異臭の正体はそこだったのか、納得した。その流れで、どうこすっても落ちない床の染みや、広範囲に繁茂したカビ類が発見され、一朝一夕ではこの部屋はどうにもできないということがわかった。結果、俺とスイの勉強会には、研究室と実験室の間の部屋、準備室があてがわれることになった。

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