第4話 腐海手前の研究室
「戻りました」
乱雑に積まれた資料と実験データ。少しかび臭いような空気、各々の机にはパソコンがおかれている。誰が書いたのか、「整理整頓」と手書きで書かれた張り紙は端のほうが破れていて、この乱雑な部屋を片付けようと思案した者がいたことがうかがえる。その横には、菓子パンやカップラーメン、割り箸の束が備蓄されており、寝袋すら持ち込まれている。『ナグモ研究室』、教授の指導のもと、現在3人の学生がモンスターの生態について学ぶ研究室である。
「珍しいな。講義か」
「まあ、休講でしたけど」
パソコンから目を離さず、背中で返事をしたのは、この研究室の長、ナグモ女史だ。モンスターの生態、特に瑞白町の超大型モンスター、カグツチが出す有害物質についての研究をしている。見た目は若く見えるが、日本へのモンスター襲来当初から、モンスターの生態について研究を続けている第一人者であるらしいため、結構な年なのかもしれない。
ナグモ女史は随分伸びてしまった前髪を乱暴にかきあげながら、俺のほうを振り返る。
「帰宅困難区域への立ち入り調査の許可が出たよ。来週の金曜日に行くからな」
「ああ、この間言ってたやつですね。朝からですか?」
「そうだ。バイト代は出すぞ」
「いい加減、正式に助手雇ってくださいよ…まあ、いいですけど」
瑞白町への立ち入り調査。防護服の着用は必須で、帰ってきたあとも除染作業を受ける必要があり、一日拘束される。本当に有害物質が除染できているのかと不安になったこともあるけれど、ナグモ女史に「除染装置は私が作ったんだ。信頼しないのは自由だが、世界にこれしかないから諦めろ」と生産者の顔をされた。
瑞白町各所の汚染値の測定、土壌やカグツチ本体の体の一部の採取。世間で脚光を浴びるのは、エネルギー変換やHET活用など、金になる研究だけれど、ナグモ女史はいわば「後始末」の研究をしている。
帰宅困難区域への立ち入りは厳しく制限されている。カグツチの有害物質は、生身の人間が一定以上曝露すると、さまざまな内臓疾患や神経疾患を誘発することがわかっている。
また、持ち帰ってきたサンプルの管理方法も厳しく定められている。防護壁と同じ素材でできた箱に二重にして入れて、鍵付きの棚に保管する。サンプルを直接取り出して研究する際も、簡易的な防護エプロンとゴーグルの着用が義務付けられている。
瑞白町では、研究室での学びというよりは、完全にナグモ女史の助手として同行することになる。今まで三度現地調査に同行したが、重い防護服に身を包んで、ずっと歩きっぱなし。夏は暑すぎて死ぬかと思ったし、冬は積雪で見えにくくなっていた用水路を踏み抜いてしまい、死ぬかと思った。幸い耕作放棄地で水流はなかったから、命拾いした。
まあ代わりに、普通のアルバイトの3倍ほどの時給を得られるわけだが。学生の身なので、基本的にいつも金はない。
自席に座る。パソコンの横にはエナジードリンクの空き缶で塔が立っている。乱雑に置かれた過去の実験データの束は、ギリギリのバランスで積みあがっている。
「ちょっとゼン、お前のこっちのデスクにも侵攻してきてる」
「ああ、ごめん。片付けるよ」
「お前のそれは片付けじゃなくて『移動』だよ。いい加減缶も捨てろよな」
向かいのデスクを使っている同級生、サカイは不満を漏らす。俺はデスクがどれほど散らかっていようがあまり気にならないが、せめてカップラーメンの汁だけはその日のうちに捨てることを約束させられている。
「ナグモ先生も、せめて弁当の殻は洗ってくださいね」
「どうせ捨てるものを、わざわざ洗うなんて非効率だろうに」
「効率の話なんてしてないんですよ。なんで二人とも平気なんですか」
有害物質の除染の第一人者のくせに、日常の空間は不衛生でも構わない。はたからみたら完全に矛盾しているが、研究の時間を少しでも多くとるために効率的に日常を送るのは、合理的であると思う。しかしナグモ女史もまた、あまりにもコーヒーのカップを洗わないので、紙コップでコーヒーを飲むことをサカイによって強制されている。
「あなたたちに任せたら、この部屋腐海になりますよ」
「さすがにそれまでには片付けるさ」
そう言うナグモ女史の声には、感情がこもっていないように思えた。この人は本当に腐海の中でも研究を続けそうである。俺のほうは、学生寮の自室はさすがに、ギリギリ腐海ではない。
「戻りましたぁ」
間延びしたあいさつをしながら、もう一人の学生、キシが研究室に入ってくる。
「教授、実験データが一応揃ったんですけど…。Slackに投げたので見てください」
「お、ご苦労様」
教授は慣れた様子でチャットツールを開くと、画面いっぱいの数字の羅列を上から読み込んでいく。…途中まで見て、呆れたようにキシのほうを振り返った。
「…これはさすがに、見事に外れ値だらけだな」
「お話にならないって感じですねぇ!」
「開き直るんじゃない。原因はなんだ?」
「たぶんチップの差し込みが甘かったんですかねえ。苦手なんですよねぇ、液体をちゃんと測るの」
「原因が分かっているのならいい。次からはしっかり手元に集中しなさい。このデータは一応もらっておくよ」
ナグモ女史は冷静に告げると、またパソコンの画面に体を向けた。
キシは肩を落としながら、すごすごと自席に戻ってくる。
「俺の徹夜がぁ…」
「仕方ないよ。あるあるだろ、手元狂うの。ゼンはそういうのないの?」
「最初の頃は何度もあったよ。最近はしなくなったけど」
「ゼンはそうだよな」
実験は外れ値との戦いだ。しかしどれほど難しい実験でも、データがとれるまで繰り返せば100%にできる。幸いにも潤沢な研究設備と、時間と体力があるので、落ち込んでいる時間がもったいない。
1回目が駄目なら、すぐに2回目にとりかかる。100回やっても駄目なら、101回やるしかない。100万回目で成功するなら、100万回やるべきだろう。
「まあ、できるまでやるしかないよね」
俺の言葉に二人はため息をつく。
「分かっちゃいるけどさぁ、みんながお前みたいに脳筋じゃないんだよ」
「うわ、見てこれ、昨日の履歴。怖…この人、1日で92回も修正してる」
研究のバージョン管理ツールの画面には、昼から朝方までの俺の更新記録が表示されている。昨日は92回、集中力の調子がよかったので、朝方まで夢中でシミュレーションを続けていた。
「途中からめっちゃ楽しかったよ」
本心からの笑顔でそう答えると、二人は呆れた顔をした。
「寝たほうがいいぞ、それ」
必修科目でもない限り、講義は1週間に1回だ。必然的に、スイという少女にハンカチを渡せるのは1週間後になる。
実験がキリのいいところまで進んだので、俺はいつものように食堂を訪れていた。カレーライス大盛、300円。安いなりにほとんど具材は入っていないが、カレーの本体はルーなので問題はない。
スプーンですくっていると、視界の端に知っている顔が見えた。思わずそちらをみると、目が合ってしまう。
「ゼンくん」
「…マリノ、さん」
マリノはなぜかこちらに近づいてきて、俺の向かいの席に腰を下ろす。手にはペットボトル入りのミルクティーがあって、暖かいペットボトルを包み込むように手を添えている。もうすっかり春だが、雨の日はまだ冷える。
「マリノでいいよ。こんな時間に昼ご飯?」
俺は黙ってうなずく。気の利いた返事はできないが、マリノは気にしていない様子で、テーブルに肘をついた。
「へえ、忙しいんだね」
「うん、…マリノは?」
「休憩中。ちょっと探し物してて、行き詰まったから…ってあれ、」
マリノの視線が、さまざまな荷物が乱雑に放り込まれているカバンに落とされる。参考書、筆記用具、メモ用紙、財布、いつかもらったレシート、使わなかったコンビニのおしぼり、本で圧縮されて原形のないプリント。その中で、内ポケットからはピンク色の可愛らしいハンカチがのぞいている。
「そのハンカチ」
マリノは確かめるように、カバンをのぞき込む。そうされて初めて、ゴミだらけのカバンから、場違いな可愛らしいピンク色がのぞいている異様さに気づく。
「あ、預かってるだけ。授業で一緒になる子の落とし物で…」
「それ!探してたの。スイって子のハンカチ」
その言葉に、思わずマリノの顔を見る。マリノの口から、「スイ」という言葉が出た。
「えっ知り合いなの」
「ちょっとね…大事なものなんだって。よかった見つかって…」
安心からか、マリノは長く息をついた。うつむいて、暖かいペットボトルを額に当てている。
思わぬところで、スイへのつながりがあった。一生懸命探しているのなら、早く返してあげたい。そこで、あ、と気づく。俺はポケットからスマホを取り出した。
「ちょっと待って」
俺はメモ用紙をちぎり取ると、メールを見ながらペンを走らせる。「補講:木曜日14時 工学部B棟303講義室」先ほどメールで知らされた、前回の分の振り替え授業だ。
「あの子、知らないだろうから。伝えてあげて」
マリノはメモ用紙をまじまじと見た後、何か言いたげな顔をした。…が、彼女は何も言わないまま、やわく笑った。
「…ありがとう」
マリノはハンカチとメモ用紙を受け取ると、食堂をあとにした。引き留めようとも思ったが、急いでいるようにも見えた。チャンスを逃してしまったな、と思った。
スイのことを、もっといろいろ聞きたかった。
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