第3話 スイ


 誰もいない、校舎の外れの講義室。30人ほどの学生が座れる座席、ホワイトボードが壁に2枚付いている程度の、小さな部屋だ。大学院生になってからは研究室にこもりきりになっており、ほとんど講義を受ける必要もなくなっているが、週に何度かは、研究に幅が出そうな授業をとっている。

 必修でもなく、おじいちゃん先生が延々とマニアックな話をしているような授業だ。はじめは10人程度の学生がいたように思うが、必要最低限の単位数をとるのが目的の学生には合わなかったのだろう、少しずつ人数が減っていき、今では数人の学生のみが受講する。

 講義が始まるまで30分ほど余裕がある。まだ誰も来ていない講義室で、暖房をつけ、研究データの整理をする。この時間が意外と集中できるため、習慣のようになっている。


 いつものようにノートパソコンと筆記用具を抱え、講義室に入る。と、今日は珍しく先約が居た。

 少女だ。講義室の後ろのほうの端の席で、少女が机に突っ伏して眠っている。小さな講義室に疎らに座る生徒はもう顔を覚えてしまっているが、見慣れないその少女に、俺は思わず目を開く。

 暖房もつけずに冷え込む講義室で、色素の薄いベージュの髪が、窓から差し込んだ光で透き通っていた。静かに、少女が眠っている。

 別に起こしても構わないと思うが、あまりにも熟睡しているように見えるので、起こすのは忍びないような気もした。暖房のスイッチを入れて、音を立てないように、ゆっくりと席に向かう。数人の学生たちが座る席はいつもなんとなく決まっていて、俺はいつも後方の右側の席に座っている。つまり、ひとつ開けて隣の席になる。

 俺が近くに座ってパソコンを開いても、少女が起きることはなかった。そのまま10分、20分と時間が経過したが、少女は物音ひとつ立てず、静かに眠り続けている。本当に生きているのか不安になって少女を見るが、かすかに肩が上下しているのが見えたので、再度パソコンの画面に目を落とした。

 ぱらぱらと生徒が集まってくる。生徒はそれぞれ少女に気づいて、一瞬ぎょっとしたような顔をするが、誰も少女に声をかけることはなかった。各々が、なんとなく決まった席につく。講義の開始時間になっても眠り続ける少女に、顔は知っているが話したことのない男子学生たちが、「えっこれ誰も起こさないの」みたいな空気を醸し出すが、誰も話しかける勇気がない。俺は陰気な男であることを自覚しているが、悲しいことにこの講義室に集まった生徒たちは、全員俺と同じようなタイプの人間であるらしかった。


 そうこうしているうちに、腰の曲がった白髪の教授が、杖をつきながら入ってきた。教授は座席を一瞥し、異様な少女の存在に気付いた様子だったが、特に気にも留めずに講義を開始した。


「…紀元前の中国大陸で起きたとされるこの地滑り。記録では単なる自然災害ですが、当時の生存者が残した『大地が咆哮し、銀色の鱗が空を舞った』という記述。一説ではこれ、最初のモンスター出現の記録ではないかと言われとるわけですな」

 歴史上の災害や、神話で「神の怒り」とされる出来事。これを科学的に解明しようとした際、どうしてもつじつまが合わないことがある。それをモンスターが湧いたという仮説で分析する、マニアックな授業。最初に聞いたときはまるで陰謀論のようだと半ば聞き流していたが、教授の話を聞く限り、事実無根というわけではないらしい。

 太古の昔にも同様のモンスター出現があったとして、それが検討に値するなら。モンスターの生態研究にも、大いに役立つだろう。そんなことを思いながら、板書を手元の資料に書き写していく。

 


 しばらくして、少女は目を覚ました。そしてきょろりと周囲を見渡し、講義を続ける教授をじっと眺めてから、何を言うでもなく、出ていくわけでもなく、ただ講義を聞いていた。

 筆記用具もノートも持っておらず、手元に一応配られた資料には目もくれず、教授の言葉に耳を傾けている。

 はじめは何も分かっていなさそうな顔をしていたが、話が進むにつれて、少しずつ少女の姿勢が前のめりになっていく。話を続ける教授を食い入るように見つめながら、まるで一言たりとも聞き逃さないようにするみたいに、真剣に耳を傾けていた。

(おお、なぜか彼女にぶっ刺さっている)

 一見胡散臭いようにみえる授業だが、この教授の話は素直におもしろい。世界の歴史や文化については基礎的な知識すら怪しい自分でも、伝説や神話を科学によって解き明かそうとする学問には、興味を惹かれていた。マニアックな内容だが、一部の生徒の間で評判がよい。

 少女は目を輝かせながら、教授の話を聞いていた。大きめのパーカーに細いズボンを合わせた、ラフな格好をしている、小柄な少女だ。まるくくりっとした深緑の瞳は宝石のような輝きを放ち、ベージュの髪が肩にかかっている。顔立ちはどこか幼く、中学生か高校生くらいに思える。半ば身を出すようにして真剣に話を聞いている少女が、なぜか気になって、そわりとした。


 どうしてここに居たのだろう。いや、この大学にいるのだろう。少数とはいえこの大学にも女子学生はもちろん存在しているが、こんな子を構内で見たことはない。大学生に比べて明らかに幼く、一般的にかわいいと言われそうな顔をしている、このような見た目の子がいれば目立ちそうなものなのに。

 気づけば九十分の授業は終了していた。教授が教科書を閉じて、ゆっくりとした動作で講義室をあとにする。生徒たちもぱらぱらと講義室を出ていき、俺と少女だけが残された。

 教授から初回の授業で頼まれて以来、ホワイトボードを綺麗にするのは自分の仕事になってしまった。老いて腰が曲がった教授のかわりに、クリーナーを滑らせる。

 その間、少女はじっと座って、俺の背中を見つめていた。俺は少女のほうを見ていなかったけれど、嫌というほど視線を感じる。不思議と居心地が悪いとまでは思わなかったものの、俺は話しかけるべきか大層悩んだ。

「……」

 互いに話しかけるわけでもなく、視線があうわけでもなく。ただ、同じ空間にふたりでいた。ホワイトボードに書かれている最後の一文字を消し終わり、いよいよ振り返らないといけなくなる。

 どうにでもなれ、と意を決して後ろを振り返ると、いつの間にか誰もいなくなっていた講義室を呆然と見渡した。一切の足音も立てず、まるで野良猫のようにいつの間にか消えていた少女。

 窓から光が差し込む、晴れた日の午後だった。そしてその次の講義から、見慣れた学生たちの顔の中に、一人の少女が加わった。


 その少女は、相変わらず筆記用具も紙のひとつだって持っていなくて、いつも後ろの席を特等席にして、前のめりで講義を聞いていた。雪解けをもたらす春のやわらかな光が、少女の薄い色の髪を照らしている。彼女がまたたくたびに、大きな瞳がきらきらと輝いていた。 板書をするでもなく、ただ食い入るように教授の話に耳を傾けて、それをきっちり90分間続けている。何が彼女にそこまで刺さっているのかは知らないが、教授のマニアックな話を、おもしろくてたまらない!という顔をしながら、真剣に聞いていた。そして板書を消す俺の背中を穴が開きそうなくらい見つめて、いつの間にかいなくなっている。

 学生の中でも、彼女は目立っていた。話しかけてもいいものなのか、思案しているような学生もいたが、誰も彼女に話しかけることはしなかった。姿勢だけは誰よりも真面目だ。きっと全員が、彼女の学びを邪魔してはいけないと思った。俺もその一人だった。

 彼女が講義室に現れはじめて、1か月が経っていた。


 スマホに一通のメールが届く。表題は『休講のお知らせ』——おじいちゃん先生が、風邪をひいてしまったらしい。今日の講義は休みになる。

 すでに講義の開始時間は迫っていた。準備を終えて、講義室に向かおうとしていたところだ。筆記用具とノートパソコンを机に置いて、急に開いてしまった時間をどう使おうか思案していると、彼女の顔が思い浮かんだ。正式に受講しているわけではなさそうな少女には、きっとこのメールは届いていない。

「あの子、多分来てるよなぁ…」

 授業を受けるのが楽しみで仕方がないような顔をした少女が、講義室にぽつんと座っている。その姿を想像して、ちりりと胸が痛んだ心地がした。


 講義室に向かうと、案の定、少女はいつもの特等席に座っていた。

 時間になっても誰も来ない状況で、不安そうに瞳を揺らしていた彼女は、俺の姿をみて、少し表情をゆるめた。

「今日、休講だって」

 意を決して、彼女に話しかける。突然話しかけられて、少女はまるい目を大きく見開いた。

「きゅ、うこう」

「先生が風邪ひいたらしくて。今日は休み」

「そっか…」

 彼女はこの状況に合点がいったような顔をしたあと、分かりやすく肩を落とした。はじめて会った日と同じように、窓から日が差し込んでいる。

「……」

「……」

 無言、静寂。気まずい空気が流れる。話してもいいものなのか、思案する。突然現れた名前も所属も知らない少女に、聞きたいことがたくさんある。意を決して俺は口を開いた。

「あの、きみは、」

 と、言いかけた言葉を遮るように彼女は立ち上がり、慌てて講義室を出ていった。ぱたぱたと音を鳴らして走っていく。いつもは気づかないうちに、静かに講義室を出て行ってしまう彼女が、今日はなりふり構わず走る姿を、俺は見送ることしかできない。

「は、速…」

 あまりの速さに呆気にとられてしまった。小さな講義室内で彼女はあっという間に加速して、廊下の向こうへ消えていく。何かスポーツでもやっているのだろうか、人間離れしているとも思える速さだ。


「あ、」

 ふと足元を見ると、ピンク色のハンカチが落ちていた。彼女のものだろうか、それを拾い上げる。シンプルな無地の生地に、白い糸で刺繍がしてある。彼女の名前かもしれない。

「えっと、す、い」

 S、U、I——スイ。

 それが彼女の名前だろうか。相変わらず所属はわからないし、どこに届ければいいかも分からない。学生課に届けるにしても、明らかに大学生より幼く見える彼女は、本当にこの学校の学生なのだろうか。


 まあ、次の授業で届ければいいか。俺はハンカチを畳んで、自分の研究室に持ち帰ることにした。

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