第2話 坂本の場合 前編

 還暦間近の税理士、坂本の日課は朝一番のコーヒーと経済新聞である。

 未だに紙の新聞を取っているのは、懐古的な心情と、単に新聞紙の手触りと微かなインクの薫りが好みだからだった。


 新聞紙というのは案外と大きくかさ張り、ちゃんと支えないとしなっと倒れてしまうものだ。

 坂本は食卓につき、新聞を両手で支えると、1の右手でマグカップを口元に運んだ。


 浮遊する機械的なアームバンドからにょっきり伸びた、赤の他人の二の腕から先が、自分の意のままに動くのにはまだ少し慣れないが、便利さはこの通りだ。


 不思議なことに、ちゃんとマグカップを握っている感触も感じられる。

 たしか自身の幽体に、他人の幽体を接続することで感覚が伝わるとかそんな説明をされた。


 キッチンカウンターの向こうでは妻が朝食の支度をしている。

 フライパンに卵を落とすすぐ横で、誰かの腕を器用に操り、キャベツを千切りにしているようでトトトトトと心地のいい音が奏でられている。

 我が妻ながら器用なことだと、坂本は感心した。


 いくらか時短で出来上がった、目玉焼きとコールスローサラダに厚切りのトーストを沿えた洋風の食卓を挟み坂本は妻に話しかけた。


「どうしてなかなか便利じゃないか。見た目はちょっと不気味だが」

「そうですね、あなた」

「どうだろう。僕は正式に利用してみようと思うんだが」

「私は遠慮しておきますよ。家事をする分にはそこまで変わりありませんもの。それより食洗機を新しくしてほしいわ」

「ん……まぁそのうちな」


 ハンドリースはいまや労務だけでなく、日常のちょっとした利便性の分野にまで浸透していた。

 

 サービス宣伝のポスターも、工場のラインに肘から先だけがずらっと並ぶ少々ホラー的なポスターから、談笑する女性旅行客の代わりにスーツケースを引いてくれる逞しい腕のポスターに変わった。

 坂本夫妻もまた、宣伝に惹かれ試用を申し込んだのだたった。

 

「本利用はそれなりに利用料がするんじゃないですか?」

「いや、聞いたところによるとこちらもリース登録をすれば利用料と相殺できるらしいんだ。上手くすれば儲けもでるかもしれない」

「そうなんですか?」

「ああ。古馴染も小遣い稼ぎにリース登録したらしい」

「そういうことなら……いいかもしれませんね」

「うん。早速午後にでもハンドセンターに行ってくるよ。君はどうする?」

「あなたがやってみて、良さそうなら考えようかしら」


 そういうわけで、坂本は早速リース登録をする為に、幽体資源管理センター、通称ハンドセンターに向かうことにした。


 ▽


「いやはや。この歳になってダンベルを持ち上げさせられるとは思わなかったよ」

「皆様よくおっしゃいます。改めて本日はハンドリースサービスにご登録ありがとうございます。受付を担当させていただきます戸倉と申します」

「坂本です。どうぞよろしく」


 センターに到着した坂本がリース登録の申請をすると、まず基礎手情報登録の為と、集団で手指のサイズや腕の長さの計測、握力測定や前腕負荷測定の為のダンベルリフトをさせられた。


 なんだか学生時代にやった体力測定みたいだと、少し汗を滲ませて同年代の男性と談笑した後、正式登録の為の受付に通された。


「では坂本様。坂本様の手をリース資源としてご登録していただくにあたり、まずは身分証の確認を。それから利用規約にご署名をしていただきます」

「ああ持ってきているよ」


 坂本は戸倉に身分証を手渡し、確認をして貰っている間に利用規約へと目を通していく。

 税理士という仕事柄、細かい確認は癖になっていた。

 

 とはいえ、こういうものは形式上というのがほとんどだ。署名をしないことにはサービスの利用も出来ないのだから、何か気になることがあっても流さざるを得ないというのが現実だ。


 坂本はこの手の規約にありがちな、問題発生時は云々責任は個々人に帰属する云々。個人情報の取り扱いについては云々といった長々とした文言に肩を竦め、書き慣れた風に自前の万年筆をさらりと紙面に滑らせた。







 

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