金次郎と花子
堀尾 朗
金次郎と花子
東京都多摩市。
その小さな街の小学校の校門前には、二宮金次郎の銅像が立っている。
朝七時半。
生徒たちが次々と登校してくる。金次郎は、この光景を五十年近く見続けてきた。
この学校の創立当初、金次郎は校門前に建てられた。
もちろん、最初から感情があったわけではない。
だが、長い年月が、いつしか金次郎に感情を与えた。
〈暇だな~〉
正直なところ、この光景には飽きていた。
友人と会話しながら登校する生徒。
俯きながら黙って歩く生徒。
小走りで校門をくぐる生徒。
毎日代わり映えのしない光景が、目の前を流れていく。
これまで金次郎は、数え切れないほどの悪戯を受けてきた。
小便をかけられた回数は四百五十八回。
ボールの的にされた回数は二百四十一回。
落書きをされた回数は三百七十九回。
最初の頃、感情のなかった金次郎に怒りはなかった。
しかし年月を重ねるうちに、沸々と怒りが湧き上がるようになった。
それでも――。
そんな悪戯をした生徒の中には、卒業の際に謝罪してくる者もいる。
その時、金次郎は決まって、快く許すことにしている。
だから、この学校の生徒たちは嫌いではない。
たまにではあるが、掃除の時間に自分を丁寧に拭いてくれる生徒がいる。
あれは、本当にありがたいことだと思っている。
残念なことに、金次郎には【二宮金次郎尊徳】としての記憶が一切なかった。
自分のモデルとなった二宮金次郎尊徳とは、一体どのような人物だったのだろうか。
金次郎は、たまにそんなことを考えていた。
そして、最近、生徒たちの間で密かに噂になっていることがある。
【二宮金次郎の銅像は、夜な夜な歩く】
それは、紛れもない真実だった。
ちょうど一年前のことだったと思う。真夜中、普段はカチカチに固まっているはずの体に、異変が起きた。
ゆっくりではあるが、確かに体が動いたのである。
それからというもの、夜になると校内を散歩するようになった。
校外へ出ようと、何度も試みたが、それは不可能だった。
そんなある日、校舎の窓が閉め忘れられていることがあった。
以前から校舎に興味を持っていた金次郎は、中に入ってみることにした。
当然、中は真っ暗で、人の気配はまったく感じられない。
金次郎は、静まり返った校舎の中を歩き、あたりを詮索してみることにした。
しばらく歩いた頃、女子トイレの中から、シクシクと女の子の泣き声が聞こえてきた。
驚いて引き返そうとした、その時――
「誰?」
女の子の声が響いた。
声の発し方を知らない金次郎は、何も答えられないまま、黙って歩を進めた。
すると、足音ひとつ立てずに、その女の子が金次郎の前に姿を現した。
「どなた?」
問いかけられても、しゃべることのできない金次郎は答えることができず、ただ俯くことしかできなかった。
「口が利けないの?わたしは花子。ねえ、私、今とっても寂しいの。一緒に遊んでくれない?」
金次郎は、静かに首を縦に振った。
「やったー!」
花子は嬉しそうに声を上げ、かくれんぼをしようと提案してきた。
遊び方を知らない金次郎は困惑した表情を浮かべたが、花子は丁寧に教えてくれた。
それは、とても楽しいひとときだった。
かくれんぼだけでなく、鬼ごっこをしたり、校舎の中を冒険したり、さまざまな遊びをした。
しかし、そんな楽しい時間も、あっという間に終わりを迎えた。
帰り際、花子がふと尋ねた。
「あなたって、校門の前の二宮金次郎でしょ?」
金次郎が首を縦に振ると、花子は笑顔で言った。
「明日も、遊ぼ」
金次郎もまた、笑顔で首を縦に振った。
しかし、次の日。
昨日開けられていた窓は、しっかりと施錠されたうえで閉められていた。
落ち込みながら校門の前まで戻ると、そこに花子が立っていた。
突然のことに狼狽している金次郎に、花子は昨日と変わらない笑顔で声をかけた。
「今日は、何して遊ぶ?あっ、そうだ!」
花子は手を叩くと、「ブランコしよ」そう言って、校庭へと走り出した。
しばらく二人でブランコを漕いでいると、花子が唐突に口を開いた。
「わたしね、金次郎君のこと、前から知ってるんだ」
金次郎が不思議そうな表情を浮かべると、花子はその理由を語り始めた。
「だって私、二十年前まで、ここの生徒だったんだもん」
話を聞くうちに、花子の過去が明らかになっていった。
二十年前、彼女はクラスの女子からいじめを受け、逃げ込んだ女子トイレで自殺を図ったという。
強い怨念を残したまま、彼女は女子トイレに化けて出るようになった。
やがて、いじめをしていた女子たちは卒業していった。
それから花子は、遊び相手を求めて「ねぇ、遊ぼ」とさまざまな人に声をかけた。
しかし、皆が怯え、誰一人として遊んでくれる者はいなかった。
そうして彼女は、何年ものあいだ、夜な夜なトイレで一人泣いていたのだという。
話し終えると、花子は明るく言った。
「ねえ、滑り台行こ」
そう言って、強引に金次郎の手を引っ張った。
それからというもの、金次郎と花子は毎日遊んだ。
一緒に過ごす時間が増えるにつれ、金次郎の中には、これまでに感じたことのない特別な感情が芽生えていった。
それは人間でいうところの恋に近いものだったが、生殖本能を持たない金次郎には、当然、性欲など存在しない。
だから恋とは少し違うのかもしれない。
それでも、花子のことを考えると、なぜか胸の奥がチクチクと痛んだ。
金次郎は、その理由を花子に尋ねてみることにした。
声を出せないため、花子に教えてもらった平仮名を使って。
花子は、きょとんとした表情を浮かべた。
しばらく文字を見つめたまま黙り込み、やがて視線をそらした。
頬をわずかに赤らめ、指先でスカートの端をつまみながら、もじもじと体を揺らす。
「……わたしもなの」
小さくそう言って、花子は照れくさそうに笑った。
最近、とても気分が良いのだとも、はにかみながら付け加えた。
それからも、二人は毎日遊んだ。
校舎で悪戯をしてみたりもした。
相合い傘に、平仮名で自分たちの名前を書いたり。
水道の蛇口をひねって、校庭を水浸しにしたり。
校内にある地蔵に供えられていた、あべかわ餅をこっそり食べてしまったり。
そんなある日、金次郎は、花子がいつもより薄くなっていることに気がついた。
どうしたの?
そう、文字で尋ねると、花子は首をかしげた。
「わからない。でもね、薄くなってから、とっても気分がいいの」
それからというもの、花子は会うたびに少しずつ薄くなっていった。
そして、不思議なことに、薄くなればなるほど、彼女の笑顔は増えていった。
薄くなり始めてから一週間ほど経ったある日、花子は珍しく、深刻な表情で口を開いた。
金次郎君と会えるのは、今日で最後かもしれない」
どうして?
金次郎がそう尋ねると、花子は少し困ったように笑った。
「なぜか、そんな気がするの。だからね、金次郎君に伝えたいことがあるの」
なに?
そう返すと、花子は胸のあたりに手を当て、静かに話し始めた。
「わたし、気づいたの。この胸がチクチク痛む理由。生前、ママが言ってたわ。人は恋をすると、胸がチクチクするんだって……」
花子は一度、言葉を切り、金次郎を見つめた。
「でも、わたし人間じゃないでしょ?そして、金次郎君も……。だからね、これは“予兆”なんだと思うの」
穏やかな声で、花子は続けた。
「わたしが成仏して、金次郎君も成仏して、それから生まれ変わる。そのとき、わたしたちはまた出会って、惹かれ合って、恋をするの。これは、その予兆なの」
少し照れたように、花子は微笑んだ。
「わたしたちは、魂と魂が恋をしてる、純白な恋愛をしているの……」
それきり、花子が姿を現すことはなかった。
金次郎は、再び以前と同じ生活へと戻っていた。
校門の前に立ち、生徒たちが登校し、下校していくのを、ただ静かに見つめるだけの日々。
朝七時半。
ランドセルの揺れる音。
靴が地面を叩く乾いた足音。
友人と笑い合いながら歩く子もいれば、俯いたまま一人で校門をくぐる子もいる。
その光景は、花子と出会う前と、何ひとつ変わらなかった。
けれど、金次郎自身は違っていた。
夜になっても、体はもう動かなくなっていた。
かつて校内を歩き回った感覚は、夢だったかのように遠ざかっていく。
足に力が入らず、やがて、微動だにしなくなった。
それに伴い、感情もまた、少しずつ薄れていった。
怒りも、喜びも、胸を刺すあのチクチクとした痛みも、次第に輪郭を失っていく。
動く喜びを知り、感じる喜びを知ってしまった金次郎にとって、再び動けなくなることは、確かに窮屈だった。
何もできず、何も選べず、ただ時間だけが過ぎていく。
それでも――。
不思議なことに、心は穏やかだった。
胸の奥に、重たいものは残っていない。
寂しさはあるはずなのに、苦しさはなかった。
ただ、静かな満足感のようなものが、そこにあった。
花子と過ごした時間は、確かに存在した。
遊んだ記憶も、笑った顔も、胸が痛んだ理由も、すべてが金次郎の中に溶け込み、形を変えて残っている。
だからだろうか。
今日も生徒たちを見送る金次郎の気分は、なぜか快調だった。
金次郎と花子 堀尾 朗 @horioro
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