第9話:境界線を引く ——少し、距離をおきたいです
それは、
衝動的な決断ではなかった。
何か大きな出来事が起きて、
心が折れたわけでもない。
怒りや失望が、
一気に噴き出したわけでもなかった。
ただ、
これまで感じてきた違和感が、
ひとつの言葉に
静かに収束しただけだった。
彼は、
誠実な人だった。
準備を怠らず、
人を喜ばせることに手を抜かず、
与えることに躊躇しない。
私が大切にされていたことは、
疑いようがない。
それでも私は、
自分の感覚を
これ以上小さくしたくなかった。
誰かの物語の中で、
役を与えられる存在ではなく、
自分の人生を
自分の足で生きたかった。
画面を開き、
言葉を選んだ。
長い説明も、
感情的な告白も、
責める言葉もいらなかった。
私は、
最後まで彼を尊敬したままでいたかった。
だから、
丁寧に書いた。
誠心誠意、
彼を愛していたこと。
感謝していること。
そして、
それでも距離を置きたい理由。
すべてを、
自分の言葉で書いた。
最後に、
私はこう結んだ。
「少し、距離をおきたいです」
送信する前、
その一文を
何度も読み返した。
そこには、
私なりの敬意も、
確かにあった愛情も、
すべて含まれていた。
送信したあと、
胸がざわつくことはなかった。
怖さも、
後悔も、
思ったほどは来なかった。
その代わり、
深く息が吸えた。
彼からの返事は、
すぐに届いた。
急いで書いたのだろうと、
すぐに分かった。
丁寧ではあったけれど、
私が伝えた核心には、
触れていなかった。
ずれた優しさと、
未練のような言葉が、
同じ行に並んでいた。
私は、
その画面を
静かに閉じた。
境界線は、
相手を拒絶するためのものではない。
自分を守るためのものだ。
私は初めて、
その線を
自分の手で引いたのだと思う。
夜は、
驚くほど静かだった。
特別な出来事は、
もう起こらない。
けれど、
確かに何かが終わり、
同時に、
何かが始まっていた。
私はもう、
誰かの物語の役を生きない。
自分の人生の、
主役に戻る。
それは、
悲しみよりも静かで、
後悔よりも確かで、
とても誠実な選択だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます