第8話:鎧の下にあるもの ——物語に配役された夜

彼は、サプライズが好きだった。

人を驚かせること。

喜ばせること。

そして、その反応を少し引いた場所から見守ること。

それは見返りを求める優しさではなく、

彼自身の中に組み込まれた

「役割」のようなものだった。

ある日、彼は何気ない調子でチケットを差し出した。

そこに印刷されていた文字を見て、

私は一瞬、言葉を失った。

劇団四季『美女と野獣』。

「取れたから」

それだけ。

でも、その一言の裏にある手間と執念を、

私は想像できた。

照明が落ち、幕が上がる。

物語が進むにつれて、

私は横に座る彼の異変に気づいた。

肩が、わずかに上下している。

呼吸が、整っていない。

クライマックス。

音楽が高まり、

物語が結ばれる、その瞬間。

彼は泣いていた。

声は出していない。

けれど、息が詰まり、

言葉にならない呼吸が、

喉の奥で何度も途切れていた。

嗚咽。

私は、それを直視してはいけないもののように感じて、

視線を舞台に戻した。

この人は、

感情がないわけじゃない。

むしろ、

溢れすぎているのだ。

ただ、

それを扱う方法を知らないだけ。

終演後、

彼は何事もなかったように立ち上がり、

いつもの声で言った。

「……良かったな」

その軽さと、

さっきまでの呼吸の乱れの落差が、

私の胸に静かに残った。

その夜、彼は言った。

「ベルは瀬奈だよ」

冗談のようで、

でも、軽くはなかった。

その言葉は、

この夜だけのものではなかった。

彼は、場面場面で、

私を「ベル」として見ていた。

強くはないけれど、

芯があって、

怖れずに世界の奥へ踏み込んでいく存在。

そして彼自身は、

きっと

野獣になった王子様の位置に、

自分を置いていたのだと思う。

別の日、

フェイラーの店に入ったときのこと。

「どれでもいいよ。買ってあげる」

彼はそう言った。

私は、

柄を見比べながら、

少し迷っていた。

そのときだった。

彼が、

ベルの柄のハンカチを見つけた。

一瞬だった。

彼は迷わず、

店員に向かって言った。

「これをください」

私は、戸惑った。

けれど、何も言えなかった。

結局、

それは私へのプレゼントになった。

笑顔で受け取ったけれど、

本当は、

別の柄のハンカチが欲しかった。

その小さな気持ちを、

私は言葉にしなかった。

——私は、

誰かの物語の中の役ではない。

彼は、

私を大切にしていた。

それは本当だ。

でも同時に、

自分の世界を完成させるための配役を、

私に与えていたのかもしれない。

そのことに気づいてしまったとき、

私はもう、

あの嗚咽を

「守るべきもの」とは

思えなくなっていた。

彼は鎧を脱いでいた。

けれど、

誰かに預けることはしなかった。

私はその夜、

静かに理解した。

これは、

愛が足りなかった話ではない。

物語と現実が、

ほんの少し、

ずれていた話なのだ。

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