第6話:生活の匂い

彼の部屋は、整っていた。

完璧というほどではないけれど、

物の位置に迷いがなく、

使われていないものが視界に入らない。

洗濯物を干すとき、

私はタオルを一枚ずつ、

干しやすいように伸ばして、

自分の腕に何枚もかけていった。

彼は何も言わない。

私の腕にかかったタオルを、

一枚ずつ、静かに取って、

そのまま物干しに留めていく。

私が伸ばし、

彼が干す。

ただそれだけの作業が、

不思議なほど心地よかった。

会話はなかった。

けれど、急かされることも、

取り残されることもない。

呼吸の速さと、

動くテンポだけが、

自然にそろっていく。

安心感、という言葉が、

そのときは一番近かった。

ふと、彼の身体に目がいった。

鍛え上げられているのに、しなやかだった。

毎日ボディクリームを塗っている私よりも、

彼の肌のほうが、しっとりとして艶がある。

それが少し、悔しかった。

胸筋は、彼のチャームポイントだった。

無意識に視線を引き寄せる形をしていて、

女性の目を惹きつけることを、

本人だけが気づいていない。

官品のスラックス越しに分かるヒップのラインも、

私はつい、見惚れてしまう。

フィジークの身体とはまるで違う、

実践の中で作られた肉体。

何度も死と隣り合わせだった身体は、

不思議なほど生命力に満ちていた。

服を着ていても、それは隠しきれない。

胸筋は、意外なほど柔らかい。

力を入れれば硬くなるけれど、

何も意識していないときは、

女性のそれと変わらない感触をしている。

広い胸板に顔を埋めると、

最高級のクッションよりも、

ずっと心地よかった。

至福、という言葉が、

そのときは一番しっくりきた。

洗濯が終わると、

彼はキッチンに立った。

研ぎ石に水を含ませ、

包丁を取り出す。

一定の角度で、

何度も同じ動きを繰り返す。

音は静かで、無駄がない。

仕上げに、ピカールで刃を磨く。

曇りが残ることを、彼は許さない。

私は少し離れた場所から、それを見ていた。

——この人は、

生活の中でも、

自分を戦える状態に戻すのだと思った。

やがて、彼は身支度を整え、

仕事へ向かう時間になった。

玄関で靴を履く背中は、

もう私のいる場所ではない。

「行ってきます」

短い言葉。

振り返らない。

ドアが閉まったあと、

部屋に残ったのは、

洗剤の匂いと、

研がれた包丁の静けさだった。

私は台所に立ち、

小さな紙に言葉を書いた。

——おかえりなさい。

それだけ。

約束もしないし、

続きを書くこともしなかった。

部屋を出るとき、

私は鍵を持たなかった。

ここは、私の生活ではない。

優しさも、ぬくもりも、

確かにあった。

けれど私は、

母になるために、

ここにいるわけではなかった。

そう思った瞬間、

胸の奥に、

静かな線が引かれた。

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