第4話:旅という中立地帯

旅は、関係に名前をつけないでいられる時間だった。

誰かの部屋でもなく、誰かの生活でもない。

私たちは、同じ景色を見て、同じ道を歩き、

それ以上のことを決めなくて済んだ。

上高地では、足音が吸い込まれるように消えていった。

水は澄み、山は近く、言葉は少なかった。

彼は前を歩き、私は少し遅れてついていく。

河童橋のあたりまで来た頃、

私は少しずつ疲労を感じ始めていた。

人の往来が増え、立ち止まる回数が多くなるにつれて、

足取りが重くなる。

まだ先があることを思うと、

気持ちが少しだけ後ろ向きになった。

気づくと彼は立ち止まり、

何も言わずに私のリュックを開けた。

中身を確かめ、

「これと、これ」という具合に、

荷物の半分を自分のリュックに移し替えた。

拒む間もなかった。

当然のことのような手つきだった。

休憩中、

私はベンチに腰を下ろしたまま、

まだ歩かなければならない距離を思って黙り込んでいた。

すると彼は、

少しだけ声の調子を変えて言った。

「さっきお土産屋で買っただろ。

長野限定、山賊焼風味のポテトチップス。

あれ、着いたら食べよう」

まるで、

目の前にニンジンをぶら下げるみたいに。

その言い方が、

指導官というより、

どこか父親のようで、

私は思わず笑ってしまった。

「……宥めるの、すごく上手だね。

さすがだな。

指導官のゆーちゃんの姿、見れた」

そう言った瞬間、

彼の表情が、ほんの一瞬だけ切り替わった。

柔らかさが消え、

目の奥に、張りつめた何かが戻る。

人を導くときの、

あの顔だった。

すぐに、元に戻った。

何事もなかったように。

けれど私は、

その一瞬を見逃さなかった。

彼はまた前を歩き出し、

私は少し軽くなったリュックを背負ってついていく。

追いつく必要も、

離れる必要もない距離。

道中、私は何度も同じ数字に目を留めていた。

時計、標識、レシートの端。

彼の誕生日の数字だった。

偶然だと分かっている。

それでも、見つけるたびに、

世界がほんの少し、彼のほうへ傾く気がした。

「まただね」

私が言うと、彼は苦笑いをした。

怖がっているようにも、

面白がっているようにも見えた。

「一万分の一の確率だよ。

そんなに頻繁に見るのは、奇跡みたいなものだ」

彼はそう言ったけれど、

私はそれを信じたわけでも、否定したわけでもなかった。

ただ、その頃の私たちは、

同じものに意味を感じやすい場所に立っていたのだと思う。

諏訪湖の旅館では、

湖の気配が部屋の中まで入り込んでいた。

夜は静かで、時間が緩んでいた。

写真を撮り、笑い、

特別なことは何もしなかった。

それでも、

あの数字は、その頃の記憶の中に、

不思議と多く残っている。

距離を置くと決めてから、

しばらくの間は、まだ目に入ってきた。

けれど最近は、

ほとんど見なくなった。

あれほど頻繁に現れていたものが、

見えなくなることもあるのだと、

私はそのとき、初めて知った。

旅は終わり、

それぞれの場所へ戻っていく。

関係に名前をつけないまま、

同じ景色を見た記憶だけが、

静かに残った。

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