第3話:江の島の魔法と、穏やかな横顔
海へ向かう坂道で、風の匂いが変わった。
塩の粒が細かくなり、音が増える。
サーフボードを抱えた彼の歩幅は一定で、私はそれに合わせて歩いた。
浜に着くと、彼は短い言葉で説明をした。
余計な比喩はなく、指示は明確だった。
私はうなずき、言われたとおりに準備をする。
ボードを持って海へ向かうとき、不思議な感覚が立ち上がった。
遊びに来たはずなのに、胸の奥が静まり、視界が研ぎ澄まされていく。
彼の背中が少し前にあり、同じ方向を見ている。
その瞬間、脳内で流れていたのは、
なぜか「抜刀隊」だった。
理屈はなかった。
ただ、今から共に向かう場所があり、
引き返すことを考えない感覚だけがあった。
——出陣する。
彼は、海の中で待っていた。
次の波に乗る私を導くために、
少し沖でボードを支え、
こちらを見ていた。
波を終えて、私はもう一度、海に入っていく。
目指す場所は決まっていた。
彼のいるところだ。
水をかき分けて近づくと、
彼は、あの笑顔で待っていた。
訓練の場でも、演出の夜でも見せない、
力の抜けた、無防備な笑顔だった。
きっと、海が彼の鎧を溶かしていたのだと思う。
肩書きも、役割も、
ここでは波に洗われて、意味を持たない。
私はその笑顔を見て、
理由もなく、胸が高鳴った。
教えられる側でも、守られる側でもない。
ただ、同じ場所に戻っていく感覚。
あのときの彼は、
事実とは裏腹に、
とても誠実そうな顔をしていた。
彼は波の見方を教えた。
声は短く、的確で、迷いがなかった。
私は言われたとおりに体を動かし、何度か失敗した。
それでも、海の中で彼は振り返り、同じ距離を保っていた。
うまく乗れたかどうかは、あまり覚えていない。
覚えているのは、海から上がったときの、身体の軽さだけだ。
夕方、江の島サムエル・コッキング苑の中にある
「影絵の広場」に立った。
園内の光が傾き、影が長く伸びる時間帯だった。
私たちは言葉を使わなかった。
それぞれの手で、半分の形を作り、光の前に立つ。
角度を合わせると、影の中でひとつの形が現れた。
ハートの輪郭だった。
顔は映らない。
名前も、表情も、肩書きもない。
あるのは、重なった影と、形だけ。
近くにいた人に声をかけ、写真を撮ってもらった。
一枚だけ。
それ以上は必要なかった。
影の中では、私たちは完成していた。
現実よりも、ずっと静かで、ずっと安全な場所で。
帰り道、彼は何も言わなかった。
私も、何も聞かなかった。
同じ海に入り、
同じ形を作った。
それだけで、十分だった。
けれど、影は光がなければ存在できない。
そのことを、私はまだ言葉にしていなかった。
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