第3話 手に汗握る話

 最後の日、母はたこ焼きプレートを出してきた。なにが悲しくて人生最後の晩餐を故郷の味でもおふくろの味でもないたこ焼きにしなくちゃいけないんだと思ったが、家族はみんな楽しそうにしているのでまあいいかと思った。


「美味しい?」

「まあ、うん」

「あんた、たこ焼き好きだもんねえ」


 苦笑してしまう。たぶん、ガキの頃の話だろう。

「俺は……でも、母さんの豚汁とか好きだったよ。肉じゃがとか」と言うと、母は目を丸くした。それから「そんなのいつでも作るわよ」と言う。一瞬、俺に明日などないことを忘れたようだった。


 腹いっぱいたこ焼きを食ってから、俺は千奈に電話をした。

『……もしもし?』

「あ……ごめん、忙しかった?」

『ううん。どうしたの』

「なんか、声聞きたくて」

 電話の向こうで千奈が何か言葉を呑み込むのがわかった。俺は頭を掻きながら「今から少し会えないか。少しで、いいから」と言ってみる。千奈はしばらくの沈黙の後で『ごめん、今日は会えない』と答えた。

 そっか、と俺は呟く。今日会えなかったら明日も明後日も会えないわけなんだが、それは俺の都合でしかない。俺はちょっと目を伏せて、「ごめん、忙しいときに」と言った。

「色々迷惑かけて、ごめん。ほんとに。君と……一緒にいた時、楽しかったよ」

『うん……。私も、あなたと会えてよかったと思ってる』

 じゃあね、と千奈が言う。

 俺は電話の切れた端末をぼんやり見て、静かに電源を切った。


「どうしたの、お兄ちゃん」

「いや……千奈と電話してた。忙しいんだってさ」

 最後の最後、家族水入らずもいいよなと俺はソファに寝そべってテレビを見る。


 広軌、と父の声がした。起き上がると父は存外真面目な顔で俺のことを見ている。

「千奈ちゃんに会って来い」

「いや……今日は、」

「お前には明日がない」

 

 そう、父はハッキリそう言った。俺はちょっと口ごもり「でも、千奈が会いたくないなら意味がないから」と俯く。「意味はないのか、本当に」と父が静かに尋ねた。

「お前がそうしたいと思ったことに、意味はないのか。人のためにならないことにはすべて意味がないのか。お前がそうしたいと思ったことには、という意味があるんじゃないのか」

 俺が何も言えないでいると、父は一度母の方を見た。母は小さく頷いている。


「……お前は父さんと母さんの、大事な、かけがえのない息子だ。だから自分の人生を大事にしなさいと、それを言ってやらずに死なせてしまった。俺たちの責任だ」

「そんなこと……」

「もう何もかも遅いけど、それでも最後の最後まで自分の人生を大事にしてほしい。最後の時間を、無理に家族俺たちにくれなくていい。そうしたいと思ったことを、やりなさい。お前は優しい子で、お前の決断を俺たちは信じる」

 俺は拳を握る。それから、静かに頷いた。


「父さん、母さん、今までありがとう。佳乃も」

 膝を抱えて、頑なに顔を見せない妹の姿が見えた。俺は静かに歩いて行って、何も言わず佳乃の頭を撫でる。佳乃も何も言わなかった。


 それから、両親に向き直って「じゃあ、また」と言った。母が「盆には帰って来なさいね」と言う。父は何も言わず、グラスをぐいっと傾けていた。







 玄関にあった自転車に跨って、俺は夜の道を走っていく。

 千奈は家にいなかった。俺は途方に暮れたが、考えても仕方ないと思ってまた自転車で走り出す。


 学校に行った。駅に行った。二人で行った寂れた商業施設に行った。それから――――海に行った。

 そこに彼女はいた。

 沖へと進んでいく彼女の影は、ひどく静かで、迷いがなかった。


「千奈」


 言いながら俺は自転車をその場に捨てて千奈を追いかける。海の水は冷たくて、取り返しのつかない死を思わせた。

「千奈、やめてくれ」

 彼女は俺の声を聞いて、振り切るように足を早める。だけど海の中を進む足は俺の方が速くて、彼女の腕を掴むことができた。


「やめてくれよ……」


 俯いたまま彼女は「どの口が言うのよ」と言う。俺は何も言わず彼女を抱き上げて、浜に戻った。彼女は抵抗しなかった。


 俺は服を脱いで、砂浜の上でそれを絞る。冷たい服を羽織るようにして、千奈に「君の服も絞ろうか」と提案した。千奈は膝を抱えてぼうっと水平線を眺めながら、首を横に振る。

「どうしてこんなこと」と俺は問いかけていた。彼女は「なんでだろう? なんでかな、って二度と考えたくなかったからかな」と答える。


 千奈の隣に腰を下ろして、俺もまた水平線を眺めた。夜の海は空とほとんど同じ黒なのに、水平線だけはハッキリと見える。

「それは、俺が死んだからなの?」

「あなたが死んだからじゃなくて、あなたを死なせてしまったからだよ」

「あれは事故だったんだよ」

「だけどあなたを死なせた原因はいくつもあって、その中で、私が占める割合はどれくらいだろうって考えてた。もし私があなたの手を離さなかったら、」

「もし君が俺の手を離さなかったら、俺は君を道連れにして落ちた。それだけだ」

「そうでしょ? そうなのよ。あの頃はそれを本当に恐れていたけれど、考えてみればそれだけなのよ。それなら私、あなたと一緒に落ちた方がよかった」

 俺は苦笑して、「俺のことまだ好きでいてくれたの?」と訊いてみる。彼女は俺を見て、それで、初めて泣いた。


「そんなことも、わたし、言わなかったんだ」


 彼女の涙を拭う。「夢みたいだ。俺、君のことを好きでいてよかったのか」と言えば彼女は俺のことを見た。

「君のこといつか迎えに行きたいと思ってたよ。君に愛想尽かされない、完璧な俺になってさ」

 そう言って、俺は砂浜に寝転がった。星の綺麗な夜だった。


「我が儘言っていいか?」

「なに」

「手を、繋いでいてくれ」

「……それだけ?」

「もうすぐ死体になる男と手を繋いでいてほしいなんてさ、ひどい頼みじゃないか」

「ほんとだね」

「でも、そうしてほしいんだ。愛してる」


 千奈も寝転がって、俺の左手を握りしめた。

「あなたの手、もう絶対離さない」

「死んだら、離していいよ」

「離さない。私、あなたの左手と生きていく」

 思わず俺は笑ってしまった。「寂しくないね」と言えば「お互いね」と彼女は答えた。







 目を開けると、そこには暗闇の中でそろばんらしきものを叩く例の男がいた。立派な髭を撫でながら「これは……うーん」と頭を悩ませている。

「あの、」

「ああ浦田さん、いかがでした?」

「感謝してます」

 それはよかった、と言いながら男が振り返った。「しかしですな、浦田さん」と眉をひそめている。


「我がブラック企業撲滅教はまだ興って日の浅い宗教でしてな。日々新しい教義ができたりしてるんですわ」

「それ誰が決めてるんですか?」

「それで最近は、『ブラック企業のせいで損なった人生の要素はすべて補償されるべき』という考え方が主流でしてな」

「はあ」

「そう考えると浦田さんへの補償が少しばかり足りないのかなと、今計算していたところなんです」


 何を言っているかよくわからなかった。「いや、十分ですよ。相当いい思いさせてもらいましたし」と言うと、男は「浦田さん、そんなんだからブラック企業なんぞにいいように使われるんですよ」と顔をしかめた。


「というわけで、追加の補償をば……ですが今度は、少し条件を変えます」

「条件?」

「こちらから、どれだけの補償になるのかのご説明は差し上げません。つまり、補償の期間がいつ終わるのか、明日なのか、何十年後か、それを知らないまま戻ってください」

「……それって、人生なんじゃないですか? 普通の」

「あるいはそのように呼ぶかもしれませんね」


 俺は目を丸くして、「待ってください」と言おうとした。男はそれを遮って、また僕の背中を押す。

「改めて、良い余生を」と笑っていた。

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