第2話 手垢のついた話

 俺は上体を起こし、信じられない思いで棺桶から顔を出していた。目が合った妹が「うわ、まじじゃん」と言ってどこかへ歩いて行く。

 死に装束では肌寒く、俺はちょっと震えた。

 妹に連れられてやってきた両親が俺を見て、「ほんとに……」と言葉を失っている様子だった。母が呆然とした様子で「あんた」と呟く。


「あんたもう、何やってんの」

 そう言って、俺のことを抱きしめた。





「そう。ブラック企業撲滅教」


 参列者が食べ残した精進落としを口に運びながら、母がそう言う。俺の葬式はトンチキな宗教式で執り行ったにもかかわらず、細かいところは仏式だった。

「死んだ人が取り損なった有給休暇の日数生き返るんだって。藁にも縋るような気持ちだったわけよ」

 俺も精進落としを口にする。料理は全て冷めていて美味くはなかったが、久しぶりにまともなものを食った気がした。


「それで、何日なの?」

「150日らしい」


 考えてみれば死後にちょっとだけ時間を貰って周囲の人々に感謝を伝える、なんてドラマや映画でありふれている手垢のついた話だ。その中で150日は、随分と長いように思えた。


「お兄ちゃんさ、うち戻って来るでしょ? マンション、解約しちゃったし」

 妹がそう言う。

 俺の手元には謎の360万円があるので、150日くらいならビジネスホテル暮らしもできそうだが、実家に帰りたい気持ちはあった。「邪魔じゃないなら」と俺は付け加える。なぜだか妹は鼻で笑って、「人んち泊まるんじゃないんだから」と言った。







 俺の部屋は実家を出たときそのままにしてあった。片付けるきっかけもなければそんなものか。

 一日寝て過ごしたが、何もしないで過ごすというのは存外罪悪感がすごい。

佳乃よしの、なんか食いに行くか。兄ちゃん金持ってるから」

 佳乃というのは妹の名前だ。妹は鼻を鳴らして、「ハンバーガーでいいよ」と言った。


 ダブルチーズバーガーを頬張っている妹に、「悪いな。迷惑かけて」と俺は言う。妹は口元を拭きながら「ほんとにさいあく」と応えた。


「父さんと母さん、やっぱ落ち込んでんのかな」

「落ち込んでるに決まってるよ。家族が死んだらそりゃ落ち込むでしょ」


 ほとんど氷しか残っていないコーラをストローで啜って、「お兄ちゃんはさ」と妹が続ける。

「あたしが落ち込んでないと思ってんの?」

「……落ち込んでるのか?」

「仕事しすぎておかしくなっちゃったんじゃない? 昔はもっと、人の気持ちがわかったと思うよ」

 俺は黙った。妹は気にせず続ける。

千奈ちなさんと別れてどんどん変になっちゃったよね。その前からちょっと……アレだったけど」

「千奈……」

 元カノの名前を出されて、俺は苦い顔になった。


「だから、呼んだよ」

「は?」


 その時、ハンバーガーショップのドアが開いてカランコロンと小さな鈴が鳴った。見知った顔が入ってきて、店内を見渡している。

 佳乃が手を振り、千奈は歩いてきた。

「佳乃ちゃん、話って……」と言いながら、俺のことを見る。


 千奈の顔が凍り付いた。俺も凍り付いている。「え……。どういうこと……?」と千奈は誰に尋ねるでもなく呟く。

「これってドッキリ?」

「あのね、千奈さん。うち、ブラック企業撲滅教なの」

「ごめん、もう一回言って」

「知らないよね。あたしも知らない。でもその教義的に、うちのお兄ちゃんは150日延命したの。残り148日かな?」

「へえ……。そうなんだ……」

 千奈は言葉ではそう言いながらも上手く咀嚼できていないようで、今にも気が狂いそうな顔で俺を見ていた。俺はこの場を何とかしなければならないと思って、「ドッキリだよ。俺、実は死んでませんでした的な……」と言ってみる。千奈はそれにも「へえ……」と言った。


「死んで、なかったんだ……。よかった」

「ドッキリじゃないよ。お兄ちゃん、あと148日で死ぬんだよ」

「さっきからずっと何言ってるの?」


 千奈はちょっと目を伏せて、「ごめん佳乃ちゃん、広軌と話していいかな」と言う。佳乃は頷いて、「先帰ってるね」と店を出て行った。


「……元気にしてました?」

「なんで敬語なの」

「なんとなく……。まだうちの家族とやり取りあったんだ」

「たぶん、あなたよりもやり取りしてたかな。みんな心配してたよ、あなたのこと」

「俺もまさかこんなことになるとは思ってなくて」

「駅の階段から落ちたんだってね。本当に死んだと思ったよ、お葬式までやって……」

「本当に死んだからな」


 千奈はさらに苦笑を深めた。「なぁに、浦田家全員で私のこと騙そうとしてんの? 死んだ本人が目の前にいたら台無しだよ」と言う。うん、と俺は言って、頬杖をついた。

「仕事、辞めたの?」

「まあ……辞めるしかないよ。というか在籍できないよ、俺、死んでるし」

「辞めたならよかった。あなた本当に……どうかしてたから」

 どうかしてた? と訊き返すと、千奈はそれには答えず「あなたがよかったら、また会おうよ。私のこと恨んでなければだけど」と微笑む。

「俺、振られたんだっけ?」

「覚えてないの?」

「君が去っていくとこしか、覚えてなくて」

 不意に千奈はひどく悲しそうな顔で俺を見た。瞬きをして、ごまかすような微笑みを浮かべて、「思ったより元気そうでよかった。あんな会社、辞めて正解だよ」と言う。

 千奈が店を出ていき、残された俺は虚空を睨んでいた。彼女があの部屋から出て行ったときに言っていた言葉を思い出そうとしたが、ダメだった。







「お兄ちゃんのこととかブラック企業撲滅教のこと、千奈さんに言った」

「そうなん?」

「うん。だって千奈さんだし」


 お兄ちゃんアイス食べる? と訊いてくる妹に「食うよ」と答えながら俺は起き上がる。


「佳乃お前、夏休みは?」

「来週から」

「……旅行でもするか。俺、金だけはあるし」

「いいじゃないの。どこ行く?」


 今から予約を取って行けるところがあるのかわからないが、このまま金と時間を持て余して何もしないでいるのは絶えられない。「じゃあ、あたし適当に予約しとくわ」と妹が言う。

「千奈さんも呼ぶね」

「呼ぶな」

「もう呼んだ」

「来るわけないだろ、元カレと家族ぐるみの旅行なんて」

「来るって」

「なんでだよ」

 スマホから顔を上げた佳乃が「そんなの決まってんじゃん、お兄ちゃん」と言う。

「千奈さんはずっとお兄ちゃんのこと心配してたんだよ」

「……振られたんだぞ、俺は」

「ダメだね、お兄ちゃんはほんとに」

 いつの間にかアイスキャンディをくわえていた母が、「今からでも、孫ができたっていいんだからね。うちで育てるから」と言っている。馬鹿言え、と俺は思った。千奈にはこれからも人生があるんだぞ、と。







「なんで来たんだよ」と俺が言うと、千奈は「来ない方が良かった?」と眉をひそめながら俺を見た。

「あなたが来てほしくなかったなら、今からでもお暇しますよ」

「なんで敬語?」

「なんとなく」

 そう言いながら俺と千奈は船に乗り込む。浦田家は俺以外もうみんな船に乗っていた。


「あのさ、」

「なに?」

「もしかして……もしかしてだけど、てか違ってたらマジで引っ叩いていいんだけど、」

「回りくどいな、なに?」

「俺とより戻すみたいな……そういう可能性がある感じ?」


 千奈は俺を振り向いた。

「ない感じ?」

 そう言った千奈に、俺は少し口ごもる。千奈は瞬きをして、「振っといてどの面下げて、って感じだよね」と言って歩いて行ってしまった。俺はそれを呼び止めようとして、だけどできなくて、またその後ろ姿を見ていた。


 数時間の船旅でたどり着いたのは、コンビニもない島だった。民家みたいな宿ではいたく歓迎されて、その日は豪勢な食事が出た。

 父が「この世の極楽だ」と言い、「ちょうどいいわね、極楽を先取りできて」と母は言った。


「俺、天国に行けんのかな」

「なんかやったの、お兄ちゃん」

「いや……よく言うだろ、親より先に死んだ子供は地獄に行くって」

「かわいそー」

「天国に行きなさいよ、私が許すから」

「母さんになんの権限があって……」


 そんな不謹慎ともいえるやり取りの中、千奈はずっと黙っていた。

 酒を呑んだ父がぐすぐす鼻を鳴らしている。俺も黙っていた。残り日数は、100日ほどになっていた。


「お前の部屋は……あれはなんだ」と父が口を開く。


 父は泣いていた。「お前……お前、あんなの……人間が住むところじゃないよ」と言う。そんなに言わなくてもいいだろと思ったが、どうも父は俺を責めているようではなかった。ただ、「なんでお前……言ってくれなかったんだ……。食うもんだって全然なかったじゃないか」と続ける。


「生きていたのか? お前は、あそこで」


 どうだろう、と俺は思う。

 生きていなかったのか? 俺はあそこで。


「お父さん、呑みすぎ。そろそろ寝ましょうね」

 そう言って、母が父を引きずっていく。部屋はいくらでもとれたが、両親は同じ部屋にしていた。


 俺は酒でぼんやりした頭で、寝る前に海を見ようと考える。


 ふと、後ろから腕を掴まれた。

「どこに行くの」と、ひどく切羽詰まった顔の千奈がそう言った。


「どこにも行かないよ」と俺は答える。


 千奈は俺の腕を離して、「まっくらだと何にも見えないね」と海の方を見る。俺もそれに頷く。夜の海は何もなく、何もないのに生き物じみていた。


「……あなたが一番大変だった時に一緒にいてあげられなくて、ごめん」

「いや、千奈が謝ることじゃないよ。俺ほんと……どうかしてたみたいだし。ずっと苦労かけてたんだな」


 しゃがんだ千奈は貝殻を拾って、月明かりに透かして見ている。「うん。あなた、たぶん病気だったよ。このままだと私もおかしくなっちゃうなと思って、出て行った」と言った。

 俺はそれを肯定する。俺はもう少しで、彼女を道連れにして転ぶところだったのだろうと思った。そうならなくて本当に良かった。階段から落ちるとき、誰の手も掴まなくてよかったと思ったのと同じだ。


「でも、こんなことになるなら、一緒におかしくなった方が良かったね」


 そう言って、彼女は貝殻をそっと浜に返した。


「あなたのお葬式に行って、あなたの顔を見たよ。死んじゃったんだ、ってすぐにわかった。死んだ人の顔してたから。ねえ、広軌。死んだの?」


 何か言おうと思ったのに、何も言葉が出てこなかった。俺はただ、ゆっくり頷いた。


「私が手を離しちゃったから、死んだの?」


 そうじゃない、と言った声が掠れる。


「このままじゃ、死んじゃうよって言ったのに」

「うん」

「本当に死んじゃったじゃん。なんであなたってそうなの」

「ごめん」


 千奈は何も言わなかった。俺も何も言わなかった。

 しばらく黙って歩いていたけれど、千奈が俺に手を差し伸べて「戻ろっか」と言った。俺は頷いてその手を掴む。宿に戻るまでの間、俺たちは無言だった。


 それから旅行が終わるまで、千奈がそのことについて何か言うことはなかった。俺の両親や妹と和気あいあいと過ごし、帰りの船でも楽しそうにしていた。島では買えなかったお土産を船着き場の近くで買って、職場で配るのだと言っていた。

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