夜更け、月を飲む

柊馬

夜更け、月を飲む

 寝室の窓際で、私はなぜか眠れずに、ミルクティーを片手に月の光を見ている。

 立ち上っていく湯気が窓を少しずつ曇らせていく。

 長いこと捲られるのを待っているカレンダーと、時間を刻む無機質な音が、私の心を、目の前の窓のように曇らせる。

 それに耐えきれずに、私は逃げ込むようにレコードに針を落とす。それは静かに回り始め、部屋にはレコード特有の、ノイズの混じった、味のある音が響いている。

 それが私の心を少しだけ、落ち着かせる。

 レコードの良さを主張したいという人はよく、その音質の良さを挙げるが、それはお門違いであり、本当に主張したいのはただ”レコードが好き”ということなのではないか。

 そんな無駄なことはいくらでも考えられるのに、私の心をかげらすものの正体がなんなのかは、まだ分かっていない。

 大昔の過ちを無意識に思い出してしまったからなのか、はたまた、これから生きていかなければならない、途方もない人生への漠然とした絶望なのか。

 なんでもいいが、心に影が落ちている。その事実だけが、鉛の足枷のように、私に重くのしかかるのだ。

 深い深い森の中で迷子になったような孤独感が、私を気付かぬうちに、しかし明確にむしばんでいた。


 私の傍らに落ちた月光は、白く冷たい霜のようで、踏めばパキパキと音が鳴りそうだと思った。

 懐かしい記憶が泡のように浮かんでくる。

 小学生のとき、かじかむ手を擦り合わせながら、霜の降りた田んぼの上を草臥くたびれた長靴で歩いて、たった一人の友人とはしゃいだ思い出。

 純粋無垢で、不安も恐れもなかったあの頃。

 今ではもう、一歩を踏み出すことがどうしようもなく怖くて、まるで鎖に繋がれた犬のように、どこにも行けずにいる。

 鎖なんて、本当はどこにもないのに。

 どうしてこうなったのか、どこで間違えたのかを自分に問うてみる。

 答えのない問いと自己嫌悪という、真っ暗な深海に沈みそうで、そうしたらもう戻ってこれなくなりそうで、慌てて私はその美しい泡を割った。


 ふと顔を上げる。月と目が合う。真ん丸なそれは、全てを見透かしたように笑っている。

 この孤独を理解してくれるのは、もしかしたら月だけなのかもしれない。

 月は、太陽の光を反射して輝いているのであって、自らの力で輝いているのではない。

 私も所詮、周りの光に当てられて、自分が輝いているつもりになっているだけの月なのである。

 中心が自分ではなく、他人にあるのも、地球を中心に回っている月と同じなのだろう。


 どれほどの時間、そうして月と会話していただろう。

 再び脳裏に浮かぶのは、故郷に置いてきたあなただった。

 思えば、私の心を真に理解してくれていたのは、目の前の月以外には、あなただけだったのだろう。

 「人生なんてくだらない」なんて言い合って、近所の山に冒険に行った日々。

 生きる意味が分からないまま生かされているという孤独を共有することができた唯一の友。

 別れの言葉も言えずに、周りと違うという焦燥感に駆られ、行く当てもないのにあの街を飛び出した夜。

 失って初めて気付く大切さがあるとよく言うけれど、その通りだったみたいだ。

 本当は、他人の共感なんていらなかった。

 あなたがただ隣にいてくれれば、それでよかったんだ。

 あなたも同じ月を見ているのだろうか。月の光が私の濡れた頬をキラキラと照らす。

 この月だけが、今私とあなたを繋ぐ、ただ一つの証なのであろう。

 過去を思うというのは、私が恐れていたような真っ暗な深海ではなく、私の心の奥底に差し込む、月に似た、優しい光だった。

 故郷に戻ったら、あなたは私が隣で月を見ることを許してくれるだろうか。そんな叶わぬ願いを唱えながら、私は一人ベッドに沈んでいく。

 もう、眠れそうだ。

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夜更け、月を飲む 柊馬 @tenten_222

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