第3話
キーンコーンカーンコーン。
4限終了のチャイムは、本来なら解放の合図だ。
だが今日の俺にとって、それは次の試練の開始ゴングに過ぎなかった。
「……はぁ」
俺は机に突っ伏した。
午前中だけで、一生分――いや、来世の分まで視線を浴びた気がする。
休み時間のたびに教室の入り口には他クラスからの見物人が現れ、廊下を歩けば動物園のパンダを見るような目で見られる。
「一ノ瀬玲奈の彼氏」という肩書きの重さは、想像を絶していた。
せめて昼休みくらいは、どこか人気のない場所で一人静かにカロリーメイトでもかじりたい。
そう願いながら、こっそりと教室を抜け出そうとした時だ。
「柊くん! お昼、一緒に食べよ?」
弾むような声と共に、逃走経路が塞がれた。
一ノ瀬玲奈だ。手には可愛らしいお弁当袋を持っている。
……朝渡された俺の分のお弁当とは別に、自分の分もしっかり用意しているようだ。
「あー……俺、今日は購買でパンでも買って済ませようかと」
「えっ? お弁当、作ってきたのに?」
一ノ瀬はあからさまにしょんぼりとした顔を見せた。眉を下げ、潤んだ瞳で上目遣い。
その瞬間、教室中の視線が俺に突き刺さる。
『おい、一ノ瀬さんの手作り弁当を断る気か?』
『万死に値するぞ』
という無言の圧力がすごい。
「……いや、嘘だ。ちょうど俺もお弁当が食べたかったところだ」
「ふふ、よかった! じゃあ行こ?」
彼女はパッと笑顔になり、俺の腕に自然と手を添えた。
柔らかい感触が腕に伝わり、俺の心臓が一瞬跳ねる。
だが騙されてはいけない。これは彼女が仕組んだ「仲良しカップル」の演出なのだから。
俺たちは連行されるように学食へと向かった。
白鷺学園の学食は、昼時は戦場のような混雑を見せる。
だが、俺たちが入り口に立った瞬間、奇妙な現象が起きた。
ざわ……ざわ……しん……。
喧騒が波打つように静まり、そして俺たちの進行方向に合わせて、人が左右に割れていく。
まるでモーゼの十戒だ。
全校生徒が注目する中、俺たちは学食の中央付近にあるテーブル席へと辿り着いた。
「あ、ここ空いてるね。座ろ?」
「……空いてるっていうか、空けられた気がするんだが」
俺たちが座ると、一ノ瀬は甲斐甲斐しく動き始めた。
「お水、汲んでくるね」と言って立ち上がり、戻ってきた手には二つのコップ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう……」
「あと、柊くん、卵焼きは甘い方が好きだって言ってたよね? 今日のはちょっと甘めにしたの」
……いつ言った?
俺の記憶にはない。だが、彼女はまるで長年連れ添った彼女のように、俺の好みを把握しているという設定を演じているのだ。
周囲の生徒たちが「マジかよ」「そこまで仲いいのか」とひそひそ話しているのが聞こえる。
彼女の情報戦は完璧だ。
俺はおずおずと弁当箱を開けた。
中身は色とりどりの完璧なおかずたち。冷凍食品なんて一つも見当たらない。
味も……悔しいが、絶品だった。
「どう? 美味しい?」
「……ああ、すごく」
「よかったぁ」
一ノ瀬は嬉しそうに自分のオムライス(学食メニュー)をつつき始めた。
このまま平和に食事が終わればいい。そう願っていた俺の甘い考えは、次の瞬間粉々に打ち砕かれた。
一ノ瀬がスプーンいっぱいにオムライスをすくい、それを俺の目の前に突き出してきたのだ。
ふわふわの卵と、ケチャップライス。
「はい、あーん」
学食の時が止まった。
俺の思考も止まった。
「……は?」
「あーん。美味しいよ?」
彼女はニコニコしているが、その目は笑っていない。
俺は小声で、唇を動かさずに抗議した。
「おい、正気か? ここ学食だぞ。公開処刑だろこれ」
一ノ瀬もまた、完璧な笑顔のまま、腹話術のように小声で返してきた。
「口、開けて。……ほら、恋人なんだから当然でしょ? 周りが注目してるんだから、早くして」
スプーンがじりじりと近づいてくる。
拒否すれば、「彼女のあーんを拒絶した冷たい彼氏」あるいは「恥ずかしがる初々しいカップル」として映るかもしれない。
だが、一ノ瀬の目の奥にある「やれ」という絶対零度の光が、拒否という選択肢を消滅させていた。
俺は覚悟を決めた。
毒を食らわば皿まで。ここまできたら、毒杯を飲み干すしかない。
俺は震える口をゆっくりと開けた。
一ノ瀬は満足げに、スプーンを俺の口に滑り込ませる。
「……ん」
「どう? 美味しい?」
「……おい、しい、です」
その瞬間。
学食のあちこちから、悲鳴にも似た歓声と、絶叫が上がった。
「うわあああああ!」
「見ちゃいけないものを見た!」
「尊い……けど爆発しろ!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。
俺は羞恥心で顔から火が出そうだった。
だが、一ノ瀬は涼しい顔で「私も柊くんのおかず、もらっちゃお」と、俺の弁当から唐揚げを奪っていった。
この女、心臓に毛が生えているどころか、鋼鉄でできているんじゃないか。
なんとかランチタイムを乗り切り、俺たちは食器を片付けるために立ち上がった。
俺のHPは限りなくゼロに近い。もうこれ以上、何も起きないでくれ。
「あ、待って」
一ノ瀬が俺を呼び止めた。
振り返ると、彼女がスッと手を伸ばしてくる。
その細い指先が、俺の口元に触れた。
「ソース、ついてたよ」
彼女の指が、俺の唇の端を優しく拭う。
その動作はあまりにも自然で、そして恐ろしいほどに親密だった。
柔らかな指の感触。
至近距離で見上げる彼女の瞳。
そこには、演技か本気か分からない、とろけるような甘い色が浮かんでいた。
ドクン、と。
俺の心臓が、今日一番大きく跳ねた。
周囲のざわめきが遠のく。
ただ、目の前の彼女の存在だけが、鮮烈に焼き付く。
これは演技だ。俺を守るため、彼女自身を守るための嘘だ。
分かっている。頭では分かっているのに。
「……柊くん? 顔、赤いよ」
彼女が悪戯っぽく笑う。
俺は慌てて顔を背けた。
「……うるさい。行くぞ」
早足で学食を出る俺の背中に、彼女のクスクスという笑い声がついてくる。
まずい。
これは、本当にまずい。
演技のはずなのに。
なんでこんなに、胸が苦しいんだ。
俺は、初めて彼女を「守るべき対象」としてではなく、「異性」として強烈に意識してしまっていた。
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