第2話
朝、目が覚めた瞬間、俺は神に祈った。
昨日の出来事が、すべて悪質な夢であってほしいと。
恋愛禁止の名門校で、学園一の完璧美少女・一ノ瀬玲奈の秘密を知り、あろうことか「偽装彼氏」になる契約を結んだ。
そんなラノベみたいな設定、現実にあってたまるか。
……だが、スマホの通知欄に残された『LIME ID交換完了:Reina』の文字が、無慈悲に現実を突きつけていた。
「……行くか」
重い足取りで家を出る。
通学路の景色はいつもと同じだ。だが、学校に近づくにつれて、明らかに空気が変わっていくのを肌で感じた。
校門をくぐった瞬間だ。
ざわざわ、と波紋が広がるように、周囲の生徒たちの視線が一斉に俺に集中した。
「おい、あれだろ?」
「え、マジであいつ? 嘘だろ」
「一ノ瀬さんが昨日、SNSで匂わせてた……」
「なんであんな地味なやつが……」
ひそひそ話の音量が、明らかにひそひそレベルを超えている。
視線には、好奇心、困惑、そして明確な敵意が含まれていた。
どうやら昨日のうちに、一ノ瀬は何かしらの手を打ったらしい。仕事が早すぎる。これじゃあ心の準備をする暇もない。
俺は極力気配を消し、うつむき加減で昇降口へと向かった。
地味であること。目立たないこと。それが俺の生存戦略だったはずなのに、今はまるでスポットライトを浴びながら地雷原を歩いている気分だ。
教室に入ると、その空気は頂点に達した。
ガタッ、と誰かが椅子を引く音が響き、それきり静寂が訪れる。
クラス全員の目が、俺を射抜いていた。
男子からは殺意に近い嫉妬の視線。女子からは「何者?」という値踏みするような視線。
(勘弁してくれ……)
俺は胃がキリキリと痛むのを感じながら、自分の席へと向かう。
いつも通り鞄を置き、教科書を出そうとした、その時だった。
「おはよう、柊くん」
鈴を転がすような、透き通った声。
教室の静寂を切り裂いて、一ノ瀬玲奈が俺の席の前に立っていた。
朝日に照らされた彼女は、まさしく「白鷺の至宝」そのものだった。
完璧に整えられた制服、艶やかな髪、そして誰をも魅了する聖母のような微笑み。
昨日の放課後、涙目で俺を脅迫してきた女と同一人物とはとても思えない。
「……おはよう、一ノ瀬さん」
俺は努めて冷静に、しかし声が裏返らないように注意して返事をした。
普段なら、俺と彼女の間に会話なんて生まれない。接点なんてないのだから。
その異常事態に、クラス中が息を呑んでいるのが分かる。
一ノ瀬は、ふわりと甘い香りを漂わせながら、少しだけ身を乗り出した。
周囲からは親しげに話しかけているように見えるだろう。
だが、俺には聞こえた。
「……顔、引きつってるよ」
極小のボリュームで、彼女が囁く。
目は笑っているのに、瞳の奥が全く笑っていない。
「もっと嬉しそうにして。彼氏なんでしょ?」
「……朝から注目されすぎて、胃に穴が空きそうなんだが」
「我慢して。ここで不自然な態度取ったら、昨日の苦労が水の泡だから」
彼女は完璧な笑顔をキープしたまま、俺の机にコトリと小さな包みを置いた。
「これ、よかったら食べて。作りすぎちゃったから」
その瞬間、教室がどよめいた。
手作り。お菓子か、それとも弁当か。
中身が何であれ、女子が男子に、しかもあの一ノ瀬玲奈が特定の男子に手作りのものを渡すという意味は、一つしかない。
既成事実の作成。
外堀を埋めるスピードが速すぎる。
「あ、ありがとう……」
「ううん。感想、あとで聞かせてね?」
一ノ瀬は小首を傾げて微笑む。
その仕草の破壊力たるや凄まじく、周囲の男子の何人かが「ぐはっ」と謎のダメージを受けて倒れそうになっていた。
だが、至近距離でその笑顔を受けている俺には、別の意味でのプレッシャーがかかっていた。
(受け取れ。喜べ。そして、私に惚れてる演技をしろ)
無言の圧力が、彼女の笑顔から滲み出ている。
俺は震える手で包みを受け取り、精一杯の演技で口角を上げた。
「……嬉しいよ。すごく」
「ふふ、よかった」
彼女は満足そうに目を細めると、踵を返して自分の席へと戻っていった。
残されたのは、手作りの包みを持った俺と、爆発寸前の教室の空気だけ。
HRが始まるまでの数分間が、永遠のように感じられた。
教師が入ってきても、背中に突き刺さる視線は消えない。
特に、クラスのカースト上位にいる男子グループからの視線は痛いほどだった。
「なんであいつが」「調子乗んなよ」という声にならない怨嗟が聞こえてきそうだ。
だが、一ノ瀬玲奈という爆弾を抱えてしまった以上、もう後戻りはできない。
俺は覚悟を決めるしかなかった。
この地獄のような注目の中で、完璧な彼氏を演じきるという覚悟を。
HR終了のチャイムが鳴り、1時間目の移動教室の準備が始まる。
俺が教科書を持って立ち上がろうとした時、再び一ノ瀬が俺の席に近づいてきた。
今度は、何をする気だ?
彼女は俺の目の前で立ち止まると、今度は隠そうともせずに、はっきりとした声で言った。
「ねえ、柊くん。次の移動教室、一緒に行こ?」
教室の時間が、完全に止まった。
手作りプレゼントまでは「親切」や「義理」で誤魔化せたかもしれない。
だが、「移動教室への誘い」は違う。
それは明確な、パートナーとしての指名だ。
しかも、衆人環視の中で。
彼女は俺の手元にあった教科書をひょいと取り上げると、自分の胸に抱えた。
そして、全校生徒の視線が突き刺さる中、慈愛の女神のように微笑みかけてきた。
「行こう? 待ってるね」
その笑顔は、あまりにも美しく、そして残酷だった。
俺に拒否権など最初から存在しないことを、この笑顔は雄弁に語っていた。
俺は悟った。
これから始まる学園生活は、甘いラブコメなんかじゃない。
彼女という猛獣使いに首輪をつけられ、地雷原の上でダンスを踊らされる、針のむしろの日々だということを。
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