恋愛禁止の名門校で、学園一の完璧美少女の“偽装彼氏”になった。――彼女は人気配信者で身バレ寸前だった

kuni

第1話

恋愛禁止。発覚即退学。

そんな校則を、冗談だと思っていた時期が俺にもあった。


少なくとも、この白鷺学園に入学した当初は。

偏差値70超え、県内屈指の名門校。ここには将来を約束されたエリートたちが集まる。勉強、部活、生徒会活動。青春の全てを「清く正しく」費やすことが求められ、その代償として「恋愛」という不純物は徹底的に排除される。


過去に何組ものカップルが、密告や見回りによって処分されたという噂は聞いていた。

けれど、それはあくまで噂話の範疇を出ない他人事だ。地味で目立たない、クラスの背景の一部のような俺――柊(ひいらぎ)には、関係のない話だと思っていた。


今日の放課後までは。


西日が差し込む渡り廊下。

部活動の声が遠くに聞こえるこの場所は、今の時間帯、ほとんど人が通らない死角になる。


そこで、俺は見てしまった。


窓枠に寄りかかり、幽霊のように青ざめた顔でスマホを凝視している女子生徒を。


栗色の長い髪。制服の着こなし一つとっても乱れのない清楚な立ち姿。

一ノ瀬玲奈(いちのせれいな)。

この学園で彼女を知らない奴はいない。成績優秀、容姿端麗、品行方正。ついたあだ名は「白鷺の至宝」。

男子生徒の憧れであり、同時に高嶺の花すぎて誰も声をかけられない、生ける伝説のような存在だ。


いつもなら、彼女は完璧な微笑みを浮かべているはずだった。

すれ違うだけで空気が華やぐような、そんなオーラを纏っているはずだった。


「……っ、うそ……なんで……」


聞こえてきたのは、絞り出すような悲鳴だった。

彼女の細い指が、異常なほど強くスマホを握りしめている。画面を持つ手が小刻みに震え、爪先が白くなっていた。


関わってはいけない。

俺の脳内で、最大音量の警報が鳴り響く。

普段の彼女とは明らかに様子が違う。ここで声をかければ、間違いなく面倒事に巻き込まれる。俺のような平穏第一の人間が踏み込んでいい領域じゃない。


踵を返して、気づかなかったフリをして立ち去ろうとした。

その時だ。


「……見た?」


背筋が凍った。

恐る恐る振り返ると、一ノ瀬玲奈が俺を見ていた。

その瞳は、涙で潤んでいるようにも、絶望で濁っているようにも見えた。


「い、いや、何も」

「嘘」


彼女は一歩、俺に近づいてきた。

逃げられない。その迫力に圧されて、俺は後ずさることもできなかった。


「画面、見たでしょ」


彼女が突き出してきたスマホの画面。

そこから目を逸らすことは、もはや不可能だった。


映し出されていたのは、動画サイトのコメント欄だ。

そして再生されている動画には、顔こそスタンプで隠されているものの、明らかにこの白鷺学園の制服を着た女子が、可愛らしい声で雑談配信をしている様子が映っていた。


声の主は、間違いなく目の前の一ノ瀬玲奈だ。


だが、問題なのはそこじゃない。

その動画はおそらく「切り抜き」だ。悪意のあるタイトルがつけられている。

『人気配信者レイ、制服バレで学校特定か?w』


そして、滝のように流れるコメント欄が、地獄絵図を描いていた。


1. このリボン、白鷺学園じゃね?

2. 背景の壁紙と窓枠、学校のパンフと一致したわw

3. 特定完了。明日凸る

4. エリート校とか幻滅。彼氏いんの?

5. 騙された。制裁が必要だな


俺は思わず息を呑んだ。

これは、まずい。

ネットリテラシーの低い人間なら「ただの悪口」で済ませるかもしれない。だが、俺には分かる。

これは明確な「特定」だ。

「明日凸る」という言葉がただの脅しではない可能性を含んでいることを、このコメントの流れは示唆していた。


「……一ノ瀬、これ」

「……バレたの」


一ノ瀬の声が震えていた。

彼女はその場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えるように、壁に手をついた。


「遊びのつもりだったの。顔は出してないし、絶対にバレないと思ってた。でも……昨日の配信で、少しだけ窓の外が映っちゃって……そうしたら、特定班が……」


特定班。ネットの海から僅かな情報を拾い集め、個人情報を特定する執念深い連中。

彼らに目をつけられたが最後、逃げ場はない。


「学校にバレたら、終わりだ」

俺は事態の深刻さを口にした。

「配信活動なんて、校則違反どころの騒ぎじゃない。しかもこの騒ぎが外部から学校への通報に繋がれば……」


「退学」

彼女が短く言った。その言葉の重みに、廊下の空気が張り詰める。

「退学だけじゃ済まないわ。親にも迷惑がかかるし、私の……私の人生、全部めちゃくちゃになる」


完璧美少女の仮面は、見る影もなく剥がれ落ちていた。

そこにいたのは、たった一つの過ちで断崖絶壁に立たされた、ただの怯える少女だった。


「どうするんだよ」

俺は尋ねた。解決策なんてないことは分かっている。それでも聞かずにはいられなかった。

彼女を見捨てるには、俺は少しだけお人好しすぎたのかもしれない。


一ノ瀬は顔を上げた。

涙をいっぱいに溜めた瞳で、俺をじっと見つめる。

その瞳の奥に、一瞬だけ、奇妙な光が宿ったのを俺は見逃さなかった。

それは絶望の淵で見つけた蜘蛛の糸にすがりつくような、あるいは獲物を見つけた肉食獣のような光だった。


「ねえ、柊くん」

「……なんだよ」

「お願い。私の“彼氏”になって」


思考が停止した。

今、この状況で、この女は何を言っているんだ?


「は……? お前、パニックでおかしくなったのか? 恋愛禁止だぞ。火に油を注いでどうする」

「違うの!」


一ノ瀬が俺の胸ぐらを掴んだ。

華奢な体からは想像もできないほどの力だった。


「聞いて。今、一番怖いのは『ガチ恋』のファンたちが暴走して、学校に凸してくること。彼らは私が『清純で誰のものでもないアイドル』だと思ってるから執着するの」

「……まさか」

「そう。彼氏がいるって分かれば、幻想は壊れる。裏切られたって思うはず。炎上はするでしょうね。でも、『誰かの女』になったアイドルに、特定班はもう興味を持たない。粘着質なストーカー予備軍を追い払うには、これしかないの」


毒を以て毒を制す、というやつか。

確かに理屈は通っている。

「彼氏バレ」は配信者にとって致命傷になり得るが、今の彼女にとっての最優先事項は「人気」ではない。「物理的な凸」と「学校への通報」を防ぐことだ。

ファンを幻滅させて離れさせることで、事態を沈静化させる。

捨て身の作戦だが、これ以外に即効性のある手はないかもしれない。


「それに……学校内でも、彼氏がいれば変な虫除けになる。今まで告白してくる男子を断るのが大変だったけど、公認の彼氏がいれば誰も近寄ってこない。秘密を守るのに都合がいいの」


早口でまくし立てる彼女の頭の回転の速さに、俺は舌を巻いた。

追い詰められた状況で、ここまで冷徹に損得勘定ができるのか。

これが、学園一の才女の裏の顔か。


「理屈は分かった。だが、断る」

俺は一ノ瀬の手を解こうとした。

「リスクが高すぎる。偽装だとしても、学校側にバレたら俺まで退学だ。お前の自爆に付き合って、俺が死ぬ義理はない」


至極真っ当な拒絶だ。

俺は平穏に高校生活を送りたいだけなのだ。


だが、一ノ瀬の手は離れなかった。

むしろ、さらに強く俺の制服を握りしめた。


彼女は、ふわりと笑った。

涙で濡れた目元をそのままに、唇だけで妖艶に弧を描く。

その表情は、先ほどまでの弱々しい少女のものとは違っていた。

もっと狡猾で、もっと危険な、人気配信者としての顔。


「断れると思ってるの?」


彼女は一歩踏み出し、俺を壁際に追い詰めた。

甘い香りが鼻孔をくすぐる。心臓の音がうるさいくらいに跳ねる。


「柊くん。あなたは、見ちゃったでしょう? 私の秘密」


スマホの画面を、俺の目の前に突きつける。


「ここで私を見捨てて、もし私が退学になったら……私、全部喋っちゃうかも。『柊くんも知ってたのに、止めてくれなかった』って。あるいは、『柊くんに脅されて無理やり付き合わされた』って先生に泣きつくのもいいかな」


「……お前、正気か?」

「正気よ。自分の身を守るためなら、何だってする」


彼女の瞳は本気だった。

溺れる者は藁をも掴むと言うが、今の彼女は藁を掴むどころか、通りかかった船を沈めてでも浮き輪を奪い取ろうとしている。


俺はため息をついた。

完全に、詰んでいる。

ここで断れば、彼女は暴走するかもしれない。そうなれば、俺も無傷ではいられない。

何より。

震える手で俺を脅迫する彼女の姿が、どうしようもなく痛々しくて、放っておけなかった。


「……条件がある」

俺が言うと、一ノ瀬の顔がぱあっと輝いた。

「俺の平穏を最優先にすること。バレそうになったら即座に手を引く。いいな?」


「うん! ありがとう、柊くん! ……あ、違うわね」


一ノ瀬は涙を指で拭うと、とびきりの笑顔を俺に向けた。

それは演技なのか、本心なのか。

今の俺にはまだ、区別がつかなかった。


彼女は背伸びをして、俺の耳元で囁く。

その言葉が、俺の平穏な日常の終わりの合図だった。


「拒否権はないよ? だって柊くんも、共犯者なんだから」

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