第2話|花を買う(夏)
工事の看板は、まだ立っている。
矢印の位置は少し変わり、地面の線が引き直されているが、朝に迷うほどではない。由衣は毎日ではなく、ときどき、その方向へ曲がる。理由を考えない日だけ、足がそちらに向く。
会社に着く。
フロアは変わらない。席の配置も、音の並びも同じで、キーボードの音が一定に続いている。忙しくはないが、時間が余るほどでもなく、由衣はそのまま画面を開いて作業を始める。
午前中は静かに進む。
修正は少なく、電話は短い。要件を復唱し、メモを整え、机の端に置く。その動作を崩さずにいると、時間は特別な印象を残さずに過ぎていく。
昼休み、同じ部署の女性たちが固まって席を立つ。
由衣は少し離れた場所で弁当を広げ、蓋を置く位置を決めてから箸を取る。
「それ、いつもの?」
後ろから声がして、由衣は顔を上げずに返す。
「うん」
それで足りる。
話題はすぐ別の方へ流れ、由衣は咀嚼の速度を変えないまま、弁当を片づける。
午後、書類を揃え、ファイルを閉じる。
定時が近づくにつれ、フロアの音が少しずつ減り、席を立つ人が増えていく。由衣は画面を閉じ、鞄を手に取る。
外に出る。
工事の音は夕方で止まっていて、通りはそのままだ。人の流れだけが戻り、朝よりも歩く速さがばらけている。
花屋は、その途中にある。
フェンスの位置が、前と少し違っている。
ドアは開いていて、中は見えすぎない。外に並ぶ花は数が少なく、どれも手に取りやすい位置に置かれている。
由衣は歩幅を落とす。
止まるつもりはなかったが、足が合わず、視線が店先の台に置かれた小さな花束に向く。色は控えめで、紙の包みも簡単だ。
由衣は中には入らない。
外側で、その束を一つ手に取る。重さを確かめ、値札を見る。高くないと分かると、そのまま戻さない。
一度だけ、店の中を見る。
奥で店員が花を整えているが、こちらには気づいていない。
由衣は小さく声をかけ、外の台の前で支払いを済ませる。
花を受け取ると、すぐ歩き出す。
電車に乗る。
座れる。膝の上に花を置き、包みが崩れない位置を探す。揺れは小さく、周りの会話は耳に入らない。
家に戻る。
靴を脱ぎ、鞄を置く。花瓶を出し、水を入れ、量を確かめる。花を入れ、向きを直し、位置を決める。
部屋の中に、色が増える。
それ以上でも、それ以下でもない。
花を買う理由を、由衣は考えないことにした。
それが何かを変えるとは、思っていなかったはずだった。
翌日、遠回りはしない。
看板は同じ場所に立っている。
次の日は、曲がる。
理由は考えない。
その日から、花はたまに買う。
毎回ではない。
外に並んだ、手に取りやすい花束だけだ。
由衣は、いくつかの束を見比べる。
色の違いを確かめ、位置を戻す。
一度だけ、別の花に手が伸びて、止まる。
理由は考えない。
結局、最初に手に取った束を選ぶ。
花屋は、何も言わない。
その日は、足さなかった。
次の更新予定
遠回り 筧 みなみ @Hana-neko
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