遠回り
筧 みなみ
第1話|遠回り(初夏)
朝、道路工事の看板が立っている。
白地に赤の矢印がはっきりしていて、迷う余地がない。
三浦由衣は歩調を変えず、その方向へ曲がった。
前を行く人の背中が、そのまま流れになる。立ち止まる人はいない。
遠回りになる。
距離は増えるが、時間を計るほどではない。信号を二つ渡り、自然と歩く速さが揃う。
空気は少し湿っている。
半袖ではまだ早いが、長袖だと重たい。上着を着るほどではない、そんな朝だ。
会社に着く。
フロアはすでに動いている。キーボードの音が途切れず並び、コピー機が一度だけ鳴る。電話は短く、要件だけで切れる。
忙しくはない。
けれど、退屈でもない。
由衣は席に着く。
鞄を足元に収め、画面を開く。今日の予定を確認し、順に処理を始める。
「おはよう」
近くの席から声がする。
由衣は顔を上げ、軽く会釈を返す。それ以上は続かない。
「これ、お願いできる?」
書類が机の上に置かれる。
由衣は項目を上から追い、日付を確認し、端を揃える。不足はない。順番を入れ替え、ファイルに挟む。
「分かりました」
それで足りる。
説明も確認も、付け足さない。
午前中は静かに進む。
急ぎの案件はなく、修正は少ない。由衣は同じ動作を崩さず、画面と紙を行き来する。
昼休み、同じ部署の女性たちが固まって席を立つ。
由衣は少し離れた場所で弁当を広げる。蓋を置く位置を決め、箸を取る。
「今日もそれ?」
後ろから声がかかる。
「うん」
一言で終わる。
話題はすぐ別の方へ流れる。由衣は咀嚼の速度を変えない。
午後、電話が鳴る。
メモを取り、復唱し、切る。折り返しの内容を整え、机の端に置く。急がない。抜けを作らない。
定時を少し過ぎて、画面を閉じる。
向かいの席は空いている。営業の佐藤は、外に出ていることが多い。
外に出る。
工事の音が続いている。金属の響きが一定で、間がない。朝と同じ矢印に従って歩く。
花屋は、その途中にある。
ドアは開いている。
中までは見えないが、外に手頃な花が並んでいる。束ね方は簡単で、色は混ざりすぎていない。
由衣は立ち止まらない。
視線だけが一度、花に向く。白と緑の間を確かめ、すぐ前を見る。
電車に乗る。
座れない。手すりを握り、揺れに合わせて体重を移す。
家に戻る。
靴を脱ぎ、鞄を置く。窓を少し開け、空気を入れ替える。部屋は静かで、必要なものは揃っている。
夜、実家のことを思い出す。
庭に花があった。名前は知らない。季節ごとに、何かが咲いていた。水をやる順番だけは覚えている。
翌朝、また同じ看板が立っている。
同じ矢印が、同じ方向を指している。
由衣は、またそちらへ曲がった。
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