エピローグ
東京の夏は、暴力的なほどに青い。
新居に引っ越してから初めて迎える、七月の土曜日。
庭に設置したビニールプールからは、キラキラと跳ね返る水飛沫と、鼓膜を心地よく突き抜ける子供たちの歓声が溢れていた。
「ママー! 見て、あーちゃんお顔つけられるよ!」
「ひなちゃん、すごい! ゆうくんも見て見て!」
五歳の陽葵と三歳の葵だけじゃない。隣の家に住む同い年くらいの男の子や、近所の仲良しの子たちが、我が家の庭に集まっている。
百平方メートルを超えるこの敷地は、この過密な東京都内において、ある種の「贅沢」の象徴なのだと、不動産屋は言っていた。確かに、周囲を見渡せばペンシルハウスが立ち並び、公園まで行かなければ思い切り水遊びもできない場所が多い。
「はい、みんな! 冷たい麦茶とスイカだよ。一度休憩!」
私が縁側から声をかけると、水浸しの小さな生き物たちが一斉に駆け寄ってくる。足の裏が濡れた芝生を蹴る感触、弾ける水の冷たさ、そして切りたてのスイカから漂う青臭く甘い匂い。
「瑞希、お疲れ。……いや、こっちはもっと『戦場』だな」
勝手口から、お盆を持った健太が出てきた。
彼は今日、夜勤明けだ。少し前までのアパートなら、子供たちの声に眉を顰めて耳栓をして寝ていたはずなのに、今の彼は、どこか誇らしげに騒がしい庭を眺めている。
「健太くん、寝なくていいの? 夜勤明けでしょ」
「いいよ。この声を聞いてると、なんか目が冴えちゃってさ。……なあ、瑞希。こうして見ると、やっぱりここにして良かったな」
健太は、スイカを頬張る子供たちの向こう側、自分たちの家の白い外壁を見上げた。
かつて不動産サイトを眺めていた頃、「都内で100㎡以上の宅地」という条件は、どこか遠い国の「お金持ち」のものだと思っていた。看護師二人の給料で、そんな身の丈に合わない贅沢をしていいのかと、何度も二人で話し合った。
「……お金持ちの家、なのかな。ここは」
私がポツリと呟くと、健太は笑って、私の肩に手を置いた。
「金銭的な意味じゃなくてさ、『心の持ちよう』がお金持ちになれる家なんだと思う。……見てよ、あの子たちの顔。あんなに自由に、誰にも気兼ねせず笑ってる。あのアパートで『静かにしなさい』って言い続けてた頃の俺たちに、教えてやりたいよな」
健太の指先は、夜勤明けの疲れで少しだけ浮腫んでいる。
私たちの10年。
流した汗の量。
救えなかった命への祈り。
そして、深夜の駅の改札で繋いできたバトン。
それらすべてが、この「100㎡の地面」という形になった。
七千六百八十万円という数字は、誰かに見せびらかすためのステータスではない。私たちが、この東京という街で「子供たちを自由に遊ばせる権利」を、自分たちの労働の対価として勝ち取った証なのだ。
「瑞希。俺さ、病院で死ぬほど働いて、ボロボロになって帰ってきても、この庭で遊ぶ陽葵と葵を見てると、『ああ、俺のバイタルは正常だ』って思えるんだ」
「ふふ、また看護師っぽいこと言って。……でも、私も同じだよ。この広さは、私たちが十年間、一生懸命生きてきた『器』なんだよね」
私は、スイカの種をプッと飛ばした葵の頭を撫でた。
太陽の熱を吸い込んだ子供の髪は、驚くほど熱くて、生命力に満ちていた。
「ねえ、健太くん。この家、ずっと守っていこうね。三十五年後、私たちが腰を丸くして、今度は孫たちがこの庭で水遊びをするまで」
「ああ。その頃にはローンも終わってるし、本当の『お金持ち』の隠居生活が待ってるかもしれないぞ」
「その前に、明日の日勤頑張らなきゃ。……最強のチーム、今日は早めに寝ようか」
夕暮れが近づき、近所の子たちが「バイバイ」と手を振って帰っていく。
静かになった庭に、打ち水の匂いがふわりと立ち上った。
東京都内で、100㎡以上の家を持つということ。
それは、ただの贅沢ではない。
私たち夫婦が、首から下げたステートスコープ一本で切り拓いてきた、愛と執念の軌跡だ。
「さあ、陽葵、葵。お風呂に入って、パパとママと一緒にご飯食べよう」
「はーい!」
家族四人、繋いだ手の温もり。
私たちは今、最高に「お金持ち」で、最高に幸せな、東京の看護師夫婦だ。
空には、一番星が光り始めていた。
明日もまた、命の現場へと向かう。
けれど、私たちにはもう、揺るぎない「帰る場所」がある。
(エピローグ・完)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます