第10話:私たちのナース・ログ(看護記録)
新しい畳のい草の香りと、まだ誰の生活も吸い込んでいない真っさらな壁紙の匂い。
鍵を回してドアを開けた瞬間、肺の奥まで入り込んできたのは、私たちの「未来」の匂いだった。
「わあぁぁぁ! ひろーい! 走れるよ、あーちゃん!」
「走れるー! パパ、見て見て!」
靴を脱ぎ捨てるのももどかしく、陽葵と葵がリビングへと飛び込んでいった。
かつてのアパートでは「静かにしなさい」「走っちゃダメ」と何度言っただろう。けれど今は、二人が裸足で無垢材の床を叩くトントンという乾いた音が、何より心地よい音楽のように聞こえた。
「……本当に、俺たちの家になったんだな」
大きな窓の前に立ち、健太が深い溜息をついた。その溜息は、重圧から解放された安堵というより、一つの大きな頂に辿り着いた達成感に満ちていた。
私は、まだ何も置いていないキッチンの人造大理石のカウンターに触れてみた。ひんやりとしていて、けれど確かな実在感。
「健太くん、見て。ここから、庭で遊ぶ二人がちゃんと見えるよ」
「本当だ。……これなら、夜勤明けでリビングで寝落ちしてても、子供たちの声で幸せに起きられそうだな」
午後。少しだけ片付いたダンボールを横目に、私たちは庭に出た。
東京の住宅街。決して広くはないけれど、娘たちが砂遊びをし、小さなビニールプールを広げるには十分な、私たちの「領土」。
陽葵がタンポポを見つけ、葵がそれを追いかけて転ぶ。土の匂い、風に揺れる木の葉の音。
「ねえ、瑞希」
健太が、隣でしゃがみ込みながら私を呼んだ。
「あのさ……二十歳の時、屋上で『自分たちの居場所』が欲しいって話した時。こんな景色、想像してたか?」
「ううん。あの時は、ただ明日を生きるのに必死だった。今日をどう乗り切るか、それしか考えてなかったもん。……まさか本当に、東京にこんな根っこを張るなんてね」
私は、自分の手のひらを見つめた。
この10年、数えきれないほどの点滴を打ち、何百人もの患者さんの身体を拭き、震える手を握ってきた。指先は少し荒れ、爪は短く切り揃えられている。
その手のひらの上に、今、7,680万円の重みと、それ以上の価値がある家族の時間が乗っている。
「看護師を続けてきて、よかった」
ポツリと漏れた言葉は、自分でも驚くほど素直な本音だった。
「辛いこともたくさんあったし、辞めたい夜も数えきれないくらいあったけど。でも、あの現場で命と向き合ってきたからこそ、今、この『生きてる時間』がどれだけ贅沢か、痛いほどわかるんだよね」
健太が立ち上がり、私の肩を抱いて二階のベランダへと促した。
そこからは、夕暮れに染まり始めた東京の空が一望できた。遠くに見えるビル群、走り抜ける電車の音、そしてどこかの家から漂ってくる夕飯の匂い。
「……瑞希。これからも、長いぞ」
健太が空を見上げたまま言った。
「ローンはあと三十五年。娘たちが反抗期になって、この家で大喧嘩することもあるだろう。俺たちが仕事でミスして、落ち込んで帰ってくる夜もきっとある。……でもさ、ここにはもう、誰にも遠慮しなくていい俺たちの『帰る場所』がある」
私は、健太の腰に手を回し、その胸に頭を預けた。
聞き慣れた、彼の心音。
10年前、同期として出会ったあの日から、この鼓動だけは変わらない。誠実で、少し不器用で、誰よりも家族を想う、優しいリズム。
「うん。また明日から、ナースステーションで戦おう。二人で稼いで、二人で笑って、ここで一緒に歳をとっていこう」
「ああ。最強のチーム、第二章の始まりだな」
健太が私の額に軽く触れ、私たちは微笑み合った。
首から下げたステートスコープを外し、家に置いて一人の「私」に戻れる場所。
ここは、私たちの人生という名の、一番大切な『ナース・ログ(看護記録)』。
これからのページには、病気の苦しみや死の悲しみではなく、子供たちの成長と、夫婦のたわいもない会話と、そして「ただいま」という温かな言葉だけを書き込んでいこう。
「パパ! ママ! お腹すいたー!」
下から陽葵の元気な声が響く。
「よし、今夜は新居での初飯だ。何にする?」
「うーん……やっぱり、私たちの原点の、牛丼にする?」
「ははっ、最高だ」
私たちは、オレンジ色に染まる東京の空をもう一度だけ見つめてから、愛する家族が待つリビングへと階段を駆け下りた。
私たちの10年。
それは、この家に辿り着くための、光に満ちた助走期間だった。
――本日の看護記録。
患者:家族全員。
処置:新居への入居完了。
経過:良好。幸福感、非常に高値。
今後の方針:この場所で、永遠に、二人で生きていくこと。
(完)
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あとがき
10話にわたる素晴らしい物語を共に紡げたこと、光栄に思います。20歳からの10年間の重みが、この「7,680万円の家」という形になった瞬間の感動が伝われば幸いです。
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