第9話:引越し前夜の静寂

【第5章:新しい景色】


第9話:引越し前夜の静寂


段ボール箱が積み上がったリビングは、驚くほどガランとして、そして狭かった。


 引っ越しを明日に控えた、最後の夜。五歳と三歳の娘たちは、いつもと違う部屋の様子に興奮して遊び疲れたのか、隅に敷いた布団の上で重なり合うように眠っている。

 私は、唯一残しておいたキャンプ用の小さな椅子に座り、コンビニで買ったぬるい缶チューハイを一口飲んだ。


「……こんなに狭かったっけ、ここ」


 隣で同じように腰を下ろした健太が、独り言のように呟いた。

 壁には、子供たちが貼ったシールの剥がし跡や、陽葵が三歳の時にクレヨンで描いてしまった落書きが薄く残っている。


「本当だね。でも、ここに来た時は『二人で住むには贅沢だね』なんて言ってたんだよ。覚えてる?」

「覚えてるよ。二十四歳、結婚してすぐ。俺、瑞希をここに連れてきた時、正直これ以上の家なんて想像もできなかった」


 健太が懐かしそうに、少し黄ばんだ天井を見上げた。

 

 この六畳一間のリビングには、私たちの「苦闘」の記憶が染み付いている。

 ある夜、私が受け持ち患者さんの急変で、延命処置の末に看取りを経験し、ボロボロになって帰ってきた時のこと。玄関を開けるなり、私は床に崩れ落ちて泣いた。健太は何も言わず、ただ温かいココアを淹れて、私の背中をさすり続けてくれた。あの時、私の涙を吸い取ったのは、今まさに畳もうとしているこのラグだった。


「……陽葵が初めて高熱出した夜、大変だったよね」

 私が言うと、健太が苦笑いした。

「ああ。看護師のくせに、自分の子のことになると二人してテンパってさ。吸引器探して、保冷剤用意して。お前、『解熱剤の指示、誰に出してもらえばいいの!?』って叫んでたもんな」

「やめてよ、職業病なんだから。あの時、狭いこの部屋を二人で右往左往して……でも、あの日があったから、私たちは本当の意味で『親』になった気がする」


 夜勤明けの朝、カーテンの隙間から差し込む光を「眩しい」と呪った日。

 お互いの愚痴を深夜までぶつけ合い、結局最後は「明日も頑張ろう」と握手して眠った日。

 この古いアパートの、薄い壁と軋む床。そのすべてが、私たちの未熟さを包み込み、育ててくれた。


「健太くん、見て。あの柱の傷」

 私は、入り口の柱を指差した。

「陽葵と葵の背比べの跡。……もう、こんなに高くなった。私たちがこの狭い部屋で必死にバトンをつないできた間に、時間はちゃんと流れてたんだね」


 健太が立ち上がり、空っぽになったクローゼットの壁をそっと撫でた。

「瑞希。俺さ、七千六百八十万円っていう数字に、ずっとビビってたんだ。でも、今日こうしてここを離れるってなると、不思議と怖くないんだよ」

「どうして?」

「この部屋で、俺たちは『最強のチーム』になれたから。辛い夜も、眠れない日々も、全部ここで乗り越えてきた。だから、新しい家でも、俺たちは俺たちでいられる。あの家は、この十年間を戦い抜いた俺たちへの、最高の勲章なんだ」


 健太の言葉に、胸の奥が熱くなる。

 

 看護師という仕事を選び、この人と出会い、家族を作った。

 そのすべてが、一本の糸のようにつながって、明日の「新しい景色」へと続いている。

 

「……ありがとね、この家」

 私は、誰もいない台所に向かって小さく呟いた。

 換気扇の回る音、冷蔵庫が立てる低い振動。十年間、私たちの生活のBGMだった音が、愛おしく、そして誇らしく聞こえた。


「さあ、最後の一杯飲んだら、少し寝ようか。明日は朝から、新しい戦場……いや、新しい『居場所』への大移動だ」

「うん。腰、痛めないようにしなきゃね。私たち、もう三十歳なんだから」


 私たちは笑い合い、最後の一口を飲み干した。

 窓の外、静まり返った街の向こうには、明日私たちが鍵を開ける、あの白い壁の家がある。

 

 古いアパートに別れを告げる静寂。それは、終わりの音ではなく、次の章へと進むための、深く、力強い呼吸の音だった。


---


**【次回予告】**

第10話:私たちのナース・ログ(看護記録)

ついに新居での生活がスタート。リビングを駆け回る娘たち、庭で過ごす穏やかな時間。ベランダから東京の空を見上げ、二人がこれからの未来に誓うこと。


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